北方城
北方城(きたがたじょう)は、岐阜県本巣郡北方町(美濃国席田郡)にあった戦国時代の日本の城(平城)。岐阜県指定史跡[1]。現在の大井神社南東一帯に所在した。
北方城 (岐阜県) | |
---|---|
城跡 | |
別名 | 特になし |
城郭構造 | 平城 |
築城主 | 伊賀光就 |
築城年 | 明応年間(1492年-1501年) |
主な城主 | 安藤守就・稲葉良通 |
廃城年 | 1582年(天正10年) |
指定文化財 | 岐阜県指定史跡[1] |
位置 | 北緯35度26分13.4秒 東経136度41分30.1秒 / 北緯35.437056度 東経136.691694度座標: 北緯35度26分13.4秒 東経136度41分30.1秒 / 北緯35.437056度 東経136.691694度 |
地図 |
概要
編集明応年間(1492年-1501年)に伊賀太郎衛門光就が築城したという。
4代目城主の伊賀太郎衛門守就から安藤氏を名乗り、安藤守就に改名する。守就は当初土岐頼芸に仕えていたが、美濃が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えた。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたという。
1556年(弘治2年)、道三と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力し、義龍の没後は斎藤龍興に仕えた。
1567年(永禄10年)、守就は織田信長の美濃侵攻に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕え、引き続き北方城城主となる。しかし1580年(天正8年)、甲斐の武田勝頼と内通したという罪により、信長によって織田氏から追放され、北方城城主は稲葉良通がなった。
1582年(天正10年)、本能寺の変が起こり、信長が家臣の明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし、稲葉良通に攻められ敗死し、北方城は廃城となる。
北方城の跡地には、1668年(寛文8年)に北方陣屋が築かれ、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)、旗本5,000石の陣屋となり、1868年(明治元年)まで存続する。
所在地
編集- 岐阜県本巣郡北方町北方249
交通機関
編集岐阜バス北方円鏡寺線、岐阜高専線、北方穂積線、大野北高線「岐阜農林高前」バス停下車、徒歩5分。または大野真正北方線「北方一本松」バス停下車、徒歩5分。
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 北方城跡 岐阜県北方町ホームページ