前田信兆
日本の江戸時代後期~昭和時代前期の武士・裁判官。加賀藩年寄前田直信次男。石川県士族。正四位勲三等
前田 信兆 (まえだ のぶよし、文久元年9月7日(1861年10月10日)[1] - 昭和9年(1934年)) は、加賀藩出身の士族。裁判官。
生涯
編集文久元年(1861年)、前田直信の次男として生まれる。生家の前田土佐守家は、前田利政の長男直之に始まる家で、代々1万1000石を領し加賀藩の年寄を務める家柄であった。明治元年(1868年)姓を菅田と改め1100石を賜る。明治3年(1870年)前田に復姓し士族となる。明治16年(1883年)司法省法学校に入学。明治18年(1885年)法学校を卒業し判事補となる。明治20年(1887年)判事登用試験に合格し判事となり、東京控訴院判事、朝鮮総督府判事等を歴任。昭和9年(1934年)死去。享年73。次男健二郎は共立講堂の意匠設計などを手がけた建築家として知られる。
栄典
編集脚注
編集参考文献
編集- 「人事興信録」