初鹿野 信興(はじかの のぶおき)は、江戸時代中期の旗本江戸北町奉行。又八、伝右衛門。官位従五位下河内守。知行地は武蔵国土呂村など。

 
初鹿野 信興
時代 江戸時代中期
生誕 寛保5年(1745年
死没 寛政3年12月20日1792年1月13日
別名 又八、伝右衛門
官位 従五位下河内守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 依田氏初鹿野氏
父母 依田政次
初鹿野信彭
兄弟 依田政峯山本勝明信興山村良旺室ら
初鹿野信彭
長田元鋪
信敏英信
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略歴

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依田政次の三男で、初鹿野信彭の婿養子。後妻は長田元鋪の娘。

明和8年(1771年)に家督を継承、小姓組番士となり、安永8年(1779年)、使番となり布衣を着すことを許された。天明5年(1785年目付となり、天明7年(1787年浦賀奉行となる。天明8年(1788年)9月10日、江戸北町奉行となり、12月16日従五位河内守に叙任された。

寛政2年(1791年)江戸地本錦絵問屋組合(東京地本彫画営業組合の前身)の結成を主導する。寛政3年(1792年)、町奉行在職のさなか48歳で没した。

婿養子・信敏初鹿野信定三男)は失心して自殺し、養子・英信初鹿野信照長男・書院番、使番を歴任)が家督を継いだ。

出典

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