内薗 耕二(うちぞの こうじ、1916年10月9日 - 2006年10月25日)は、日本医学者生理学)。階級海軍中尉勲等勲二等学位は、医学博士東京大学1950年)。東京大学名誉教授、静岡県立大学名誉教授、生理学研究所名誉教授。

内薗 耕二
(うちぞの こうじ)
生誕 1916年10月9日
日本の旗 日本 鹿児島県鹿屋市
死没 (2006-10-25) 2006年10月25日(90歳没)
日本の旗 日本 東京都武蔵野市
居住 日本の旗 日本
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
国籍 日本の旗 日本
研究分野 生理学
研究機関 東京大学
新潟大学
ユタ大学
ワシントン大学[要曖昧さ回避]
生理学研究所
岡崎国立共同研究機構
静岡女子大学
静岡県立大学
出身校 東京帝国大学
主な受賞歴 学士院賞1977年
勲二等旭日重光章1986年
プロジェクト:人物伝
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東京帝国大学医学部副手、東京大学医学部講師新潟大学医学部教授、東京大学医学部教授、生理学研究所所長(初代)、岡崎国立共同研究機構機構長(第2代)、静岡女子大学学長(第5代)、静岡県立大学学長(初代)、静岡県立大学短期大学部学長(初代)などを歴任した。

概要

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生い立ち

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1916年鹿児島県鹿屋市にて生まれた。

鹿児島県立鹿屋中学校 (旧制)を経て[1]1937年第一高等学校理科乙類を卒業後、東京帝国大学医学部医学科に進学して医学を学び1941年に卒業した。

橋田邦彦への憧れから生理学に関心を持ち[2]、同年より東京帝国大学の医学部にある生理学教室にて副手を務めた。しかし、太平洋戦争勃発に伴い海軍に入営し、潜水艦搭乗員として終戦まで軍務に服した。復員後、中枢神経系研究業績が認められ、東京大学より博士号を取得した。

学究活動

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東京大学にて医学部の助手講師を務めた後、新潟大学に転じ、医学部の教授に就任した。また、1959年アメリカ合衆国に渡航し、2年間にわたり現地で研究を続けた。ユタ大学客員教授として最先端の医学に触れ、ワシントン大学[要曖昧さ回避]では当時の最先端技術の粋を結集した電子顕微鏡について学び、その使用法やそれを用いた研究の手法を習得した。帰国後は1962年から1977年まで東京大学医学部教授を務めた。退職後には東京大学より名誉教授の称号を授与された。

マネジメント活動

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東京大学退官後は大学共同利用機関の発展に力を注ぎ、各機関の長として活動した。1977年には生理学研究所の初代所長に就任し、1983年には岡崎国立共同研究機構の機構長に就任した。これらの功績により、生理学研究所より名誉教授の称号が授与された。

1985年には静岡女子大学の学長に就任し、静岡薬科大学静岡女子短期大学との合併を推進した。3大学の統合により発足した静岡県立大学では、初代学長として新大学を軌道に乗せることに奔走した。

2006年、東京都武蔵野市にて死去した。

研究

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専門分野は生理学であり、神経系に関する研究が多い。シナプスの形態であるS型およびF型と、神経伝達物質である興奮性シナプス伝達物質および抑制性シナプス伝達物質との間に、それぞれ相関があることを見出した[3]。これらの研究により、内薗はシナプスの形状と機能の相関を明らかにした第一人者として評価されており[2]、この功績により学士院賞を受賞している。

新潟大学では、ヤリイカを用いた電気生理の研究やザリガニ心臓神経などを用いた自律神経系の研究に取り組んだ[2]。また、ワシントン大学で電子顕微鏡について学んだことをきっかけに、電子顕微鏡による機能研究に取り組んでいた[2]。東京大学では、電子顕微鏡を用い、系統的なメダカ地図の作成を試みた[3]。静岡県立大学退職後は、「長寿傑出人の頭脳に関する研究会」を設立し代表に就任、宇野千代らを取材、調査した[3]

賞歴

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栄典

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略歴

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脚注

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  1. ^ 『第一高等学校一覧自昭和十一年至昭和十二年』163頁
  2. ^ a b c d 板東武彦「内薗先生を追悼する言葉」『日本生理学雑誌』69巻2号、日本生理学会、2007年、96頁。
  3. ^ a b c 板東武彦「内薗先生を追悼する言葉」『日本生理学雑誌』69巻2号、日本生理学会、2007年、97頁。

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
unknown
  岡崎国立共同研究機構機構長
初代:1983年 - 1985年
次代
unknown
先代
(新設)
  生理学研究所所長
初代:1977年 - 1983年
次代
江橋節郎
学職
先代
(新設)
静岡県立大学学長
初代:1987年 - 1993年
次代
星猛
先代
(新設)
静岡県立大学短期大学部学長
初代:1987年 - 1993年
次代
星猛
先代
小田幸雄
静岡女子大学学長
第5代:1985年 - 1990年
次代
(廃止)