具 滋春(ク・ジャチュン、朝鮮語: 구자춘1932年5月11日 - 1996年2月10日)は、韓国政治家陸軍軍人官僚。元済州道知事水産庁長、慶尚北道知事ソウル特別市長内務部長官。第13・14代国会議員。道玄(トヒョン、도현[1]本貫綾城具氏[2]

具滋春

経歴

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日本統治時代の慶尚北道達城郡(現・大邱広域市達城郡)に生まれた。大邱農林学校卒業。1950年朝鮮戦争に参戦し陸軍少尉に任官され、前線の指揮官として活躍した。1954年米国砲兵学校を卒業した。1963年大領として予備役に編入[2]

1961年軍団砲兵隊隊長、その後に忠清南道道警局長、1962年全南道警局長、1963年に内務部治安局情報課長、1964年ソウル特別市警察局長、1966年警察専門学校の校長を歴任した[2]。また、1961年に国学大学(現・高麗大学校)政治学科卒、1963年に東国大学校大学院卒、その後はジョージタウン大学国際問題研究所で修学した[1][2]

官僚としては1968年官選済州道知事1969年に水産庁長、1971年慶尚北道知事を歴任した。1974年に行政能力と指揮能力を認められ、ソウル特別市長に任命され、4年4か月間務めた。在任中は推進力が非常に強かったと評され、特に乙支路清渓路鍾路など道路の拡幅および江南地域の開発を含む3核都市構想に注力し[3]、「荒野の無法者」というニックネームも得た。また、ソウル地下鉄2号線の建設も彼の在任中に推進され、特にもともと往十里 - 乙支路 - 麻浦 - 汝矣島 - 永登浦という予定の放射線であった2号線の路線をわずか20分で地図鉛筆で描き加え、麻浦と汝矣島を避けて堂山九老工業団地舎堂瑞草江南蚕室地域を通る環状線の経路に変えたというエピソードもある[4][3]1978年に抜擢され内務部長官を務めたが、朴正煕暗殺事件での戒厳令発布、崔圭夏過渡政府の形成と解体、粛軍クーデターなどの激変の渦中で内務部長官を辞任した。その後は全斗煥の新軍部により金鍾泌などと共に不正蓄財の疑いで調査を受けた[2]

1987年6月民主抗争の結果である直選制改憲によって実施される大統領選挙を控え、金鍾泌と共に新党の新民主共和党を結成し、新民主共和党副総裁・慶尚北道支部委員長を務めた。1988年第13代総選挙では達城・高霊選挙区で初当選した。1990年の3党合党以降は民主自由党に入って党務委員を務めた。1992年第14代総選挙では民自党の推薦を受けて再選された。1994年には国会国防委員会委員、市友会第2代会長を務めた。1995年には民自党を離党し、金鍾泌と共に新党の自由民主連合を結成し、自民連大邱達城郡地区党委員長・副総裁を務めた[2]。他には独立記念館理事、韓日議員連盟副会長を務めたことがある[1]

1996年4月の第15代総選挙への出馬を表明したものの、同年2月10日に急逝した[5][6]

賞勲

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親族

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朝鮮日報記者、統一研究所所長を務めた[7]息子は第19代総選挙第20代総選挙に出馬したことがある[8]

脚注

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  1. ^ a b c 대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年8月6日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 구자춘(具滋春)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年8月6日閲覧。
  3. ^ a b 지하철 2호선 설계, 20분만에 '순환선'으로 바뀌다” (朝鮮語). 오마이뉴스 (2017年8月6日). 2023年9月16日閲覧。
  4. ^ 김창우 (2021年4月3日). “‘불도저’ 김현옥 도로 닦고, 구자춘은 지하철 2호선 초석” (朝鮮語). 중앙일보. 2023年9月16日閲覧。
  5. ^ 자민련부총재 구자춘議員 별세” (朝鮮語). 중앙일보 (1996年2月11日). 2022年11月1日閲覧。
  6. ^ 자유민주연합 구자춘의원 수술중 별세” (朝鮮語). KBS 뉴스 (1996年2月10日). 2022年11月1日閲覧。
  7. ^ 취산 구자춘 문집 펴낸 구성재 통일연구소 소장” (朝鮮語). 대구일보 (2011年11月13日). 2023年9月16日閲覧。
  8. ^ 구경모;백경열;황인무 (2016年4月9日). “[대구 격전지 현장을 가다] 달성군” (朝鮮語). 영남일보. 2023年9月16日閲覧。