八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 - 1924年(大正13年)4月2日[1])は、日本明治大正期の歴史学者文学博士(1922年)。國學院大学教授等を歴任。長慶天皇在位の結論を出したことで知られる。帝国学士院恩賜賞受賞。勲六等瑞宝章追賜。東洋史学者・白鳥清は甥に当たる[2]

やしろ くにじ
八代 國治
著書『長慶天皇御即位の研究』での肖像写真
生誕 鈴木 國治
1873年(明治6年)1月2日
日本の旗 日本 木更津県市原郡上高根村
(現:千葉県市原市上高根
死没 (1924-04-02) 1924年4月2日(51歳没)
東京府東京市
病死-伝染病アクチノミコーゼ(放線菌症)
研究分野 日本国史、鎌倉時代から室町時代史料の研究
研究機関 東京帝国大学文科大学史料編纂掛
出身校 國學院
主な業績 長慶天皇在位の結論
『長慶天皇御即位の研究』
主な受賞歴 帝国学士院恩賜賞
プロジェクト:人物伝
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戦前『吾妻鏡』研究の代表作 八代國治『吾妻鏡の研究』

来歴

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1873年木更津県市原郡上高根村(現在の千葉県市原市上高根)の農家の鈴木吉蔵の次男に生まれる[3]

1895年、上京し國學院に入学。1897年に國學院を卒業後、東京帝国大学文科大学史料編纂掛に入り、鎌倉時代史料の研究にあたる[3]

1901年2月、八代房吉の婿養子に入り八代姓を名乗った[3]

1908年には最初の日本史辞典である『国史大辞典』の編纂を行った。 1911年1月、國學院大學の講師となり、「国史学会」の創設に参画する[3]

1915年には吉野朝時代の編纂主任となり、一貫して中世史の研究にあたった。 1916年11月に「長慶天皇御即位に就ての研究」(『史学雑誌』第27篇第11号)を発表して長慶天皇の在位論を論じ、1920年には一連の研究成果をまとめた『長慶天皇御即位の研究』[4]を刊行、後の同天皇の歴代天皇追加(第98代)に決定的な役目を果たす。本書で1924年帝国学士院恩賜賞を受賞した。

また1919年より宮内省の依頼を受けて皇室領荘園)に関する調査・研究にもあたる。 1922年6月より國學院大學の教授を兼任する[3]1922年11月に文学博士の学位を得る[3]

1924年、アクチノミコーゼ(放線菌症)のため51歳で死去した[5]勲六等瑞宝章が追賜される[3]

著書

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  • 国史大辞典』(共著)吉川弘文館、1908年
  • 吾妻鏡の研究』吉川弘文館、1913年
  • 『武蔵武士』(共著) 博文館、1913年
  • 『武相郷土史論』(共著)日本歴史地理学会 編、1917年
  • 『長慶天皇御即位の研究』 明治書院、1920年
  • 『長講堂領の研究』吉川弘文館
  • 『新體日本歴史』冨山房、1923年
  • 『新體女子日本歴史』冨山房、1923年
  • 『国史叢説』 吉川弘文館、1925年
  • 『足利庄の文化と皇室御領』吉川弘文館、1925年
  • 荘園目録』 八代恒治、1930年(1940年に明世堂書店)
  • 『北畠顕能公』飯南多気郷友会『会誌』特別第3号、1933年

脚注

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  1. ^ 東京帝国大学一覧 従大正15年至昭和2年』東京帝国大学、1927年、374頁。 
  2. ^ 白鳥清『日本・中国古代法の研究 : 神判・誓盟の研究』(白鳥清先生頌寿記念会、1972年)p.255
  3. ^ a b c d e f g 澤田章「八代國治君小傳」『長慶天皇御即位の研究』明治書院、1927年、1-4頁。 
  4. ^ 八代國治「長慶天皇御即位の研究」『長慶天皇御即位の研究』明治書院、1927年、1-78頁。 
  5. ^ 服部敏良『事典 有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)325頁

参考文献

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関連項目

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