元 暉業(げん きぎょう、生年不詳 - 551年)は、北魏東魏皇族紹遠。北魏の景穆帝拓跋晃の玄孫にあたる[1]

経歴

編集

北魏の済陰王元弼の子として生まれた。若い頃は無頼で、こそ泥たちと交友した。成長すると態度を改め、読書に励み、文章をしたため、大志を抱くようになった。建義元年(528年)、上訴して父の済陰王の爵位を継ぎ[2][3]、散騎常侍となった。永安2年(529年)2月、行台尚書を兼ね、都督の李徳龍・丘大千を率いて梁国に駐屯した[4]南朝梁陳慶之の侵攻があり、暉業は征東将軍に任じられ、羽林庶子2万人を率いて考城に駐屯したが、4月に城を攻め落とされて捕らえられた[5][6][7][8]。のちに解放された。東魏の天平2年(535年)3月、司空に上った。8月、事件に連座して免官された[9][10]武定2年(544年)9月、太尉となった[11][12]。のちに特進を加えられ、中書監録尚書事をつとめた。あるとき高澄が「何を読んでいるのか」と暉業に訊ねると、「伊尹霍光の伝記を読んで、曹氏や司馬氏の書を読んでおりません」と答えた。これは高氏による簒奪の企みを牽制する発言であった[13][14][15]

暉業の時運は衰え、ただ飲み食いをして暮らすようになった。天保元年(550年)、北斉が建国されると、美陽県公に降封され、開府儀同三司・特進となった。暉業は交友もなくなり、暇にあかして魏の藩王の家伝を撰して、『弁宗録』40巻(『弁宗室録』30巻ともいう)を編んだ[16][17][15]

天保2年(551年)、文宣帝の車駕に従って晋陽に到着し、宮門の外で彭城王元韶が北斉に膝を屈したことを罵った。それを文宣帝が聞いて暉業を殺し、また臨淮公元孝友を斬った。孝友は刑に臨んで、恐慌のあまり挙措を失ったが、暉業は泰然自若としていた。氷に穴を掘ってその屍を沈められた[17][15]

脚注

編集
  1. ^ 北斉書 1972, p. 386.
  2. ^ 魏書 1974, p. 447.
  3. ^ 北史 1974, p. 636.
  4. ^ 魏書 1974, p. 261.
  5. ^ 梁書 1973, p. 73.
  6. ^ 梁書 1973, p. 461.
  7. ^ 南史 1975, p. 206.
  8. ^ 南史 1975, p. 1498.
  9. ^ 魏書 1974, p. 299.
  10. ^ 北史 1974, p. 185.
  11. ^ 魏書 1974, p. 307.
  12. ^ 北史 1974, p. 192.
  13. ^ 魏書 1974, pp. 447–448.
  14. ^ 北斉書 1972, pp. 386–387.
  15. ^ a b c 北史 1974, p. 637.
  16. ^ 魏書 1974, p. 448.
  17. ^ a b 北斉書 1972, p. 387.

伝記資料

編集

参考文献

編集
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 『梁書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00311-7 
  • 『南史』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00317-6