元孝友
経歴
編集臨淮王元昌(元孚の兄)の子として生まれた。兄の臨淮王元彧に男子がなかったので、孝友が臨淮王の位を継いだ。滄州刺史に累進した。孝静帝が高澄と華林で宴会したとき、孝友は酔って無礼の言があったが、孝静帝と高澄はともに笑って孝友を罰しなかった[1][2][3][4]。
孝友は、100家のうち25人が軍に入って、残りは徴発を免れる制度が公平でないとして、古くに置かれた三正の名を改めず、100家を4閭2比とし、12人の成人男子に12匹の絹を納めさせ、15人の成人男子に交代で1兵を出させるよう、孝静帝に上表した。また一夫一妻の風習を改めて、古制のように諸侯や官員に妾をもたせるよう上奏した。また盛大な祭儀や煩瑣な褥礼を廃するよう進言した。天保元年(550年)、北斉が建国されると、臨淮県公に降封され、光禄大夫の位を受けた。天保2年(551年)冬、晋陽宮に入り、元暉業らとともに殺害された[5][6][7][8]。
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。