倉地平左衛門
倉地 平左衛門(くらち へいざえもん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正3年4月3日(1575年5月22日)[1] |
主君 | 徳川家康、信康 |
氏族 | 宇多源氏族鞍智氏?[2] |
略歴
編集三河国額田郡米河内の領主であったといい、同郡岡崎城主の松平氏(徳川氏)に仕えた。倉地氏の出自については京極氏の支族・鞍智氏の一族とする説がある[3][2]。
永禄6年(1563年)三河一向一揆が蜂起すると平左衛門は一揆方に与し、戸田忠次・矢田作十郎らとともに佐々木上宮寺に入って松平氏に反した[4]。天正3年(1575年)岡崎城士・大賀弥四郎らの武田氏内通が発覚したが、平左衛門は首謀者の一人だった。この謀反が露見するや平左衛門は逃走したが、今村勝長・大岡清勝によって討ち取られた[5]。