佐竹 義智(さたけ よしとも)は、佐竹氏一門の佐竹東家第11代当主。

 
佐竹 義智
時代 江戸時代中期
生誕 正徳4年10月17日1714年11月23日[1]
死没 明和6年9月10日1769年10月9日[1]
別名 千代丸、主馬、源六郎、将監、山城(通称)、義珍、義房
戒名 津梁院殿弾山円指
主君 佐竹義真義明義敦
出羽国久保田藩執政
氏族 佐竹東家
父母 父:佐竹義本、母:不詳
兄弟 義道義智義邦
石塚義敬の娘
佐竹義敏室、義武、娘(佐竹義休室)、義路多賀谷敦候多賀谷氏へ)
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生涯

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正徳4年(1714年)、佐竹義本の子として生まれる。寛延3年(1750年)、父の隠居により家督を相続する。甥の藩主佐竹義明に執政として仕えた。宝暦7年(1757年)、藩内で銀札発行派と反対派の対立から家中騒動となり、反対派の義智と義邦は発行派に謀反を企てていると讒訴され、藩主義明に謹慎を命じられた。後に訴えが嘘だと発覚すると謹慎を解かれ、発行派が騒動を企んだとして処罰された。騒動後に褒賞として500石の加増を受けた。明和6年(1769年)に56歳で死去した。長子の義武は既に死去していたために家督は当時、久保田藩重臣宇都宮家当主であった次男義路(初め宇都宮武綱)を貰い返して養子となって相続した。

脚注

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  1. ^ a b 『新編佐竹氏系図』(加賀谷書店、1973年)p.150