佐竹 義和(さたけ よしまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名出羽国久保田藩の第9代藩主佐竹氏第27代当主。通称は次郎。官位従四位下侍従右京大夫。号は泰峨、知足斎、突故斎、日新斎、荷風亭など。

 
佐竹義和
佐竹義和
時代 江戸時代後期
生誕 安永4年1月1日1775年1月31日
死没 文化12年7月8日1815年8月12日
別名 次郎(通称)、号:泰娥、知足斎、突故斎、日新斎、荷風亭など
墓所 秋田市天徳寺
官位 従四位下侍従右京大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
出羽久保田藩
氏族 佐竹氏
父母 佐竹義敦:清(三木宇平太の娘)
兄弟 義和、梅姫ら
正室堀田正順の娘)
側室:玲光院
義厚義尹、節、利瑳ら3男3女
養女島津斉宣側室
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生涯

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佐竹義敦(曙山)の長男。生母は側室三木清(清瀧、三木宇平太の娘)。幼名は直丸。

安永7年(1778年)12月25日に藩主・義敦の嫡子となる。天明5年(1785年)7月26日に父の死去により家督を相続する。天明8年(1788年)10月15日、11代将軍・徳川家斉御目見する。同年12月16日従四位下侍従、右京大夫に叙任される。

寛政元年(1790年)3月、藩校(のちの「明徳館)を設立する。同年4月23日、初めてお国入りする許可を得る。寛政2年(1791年)、栗田定之丞を砂留役に任じ風の松原など防砂林の造成・保全に当たらせた。寛政4年(1792年)、産物方を設置し河辺郡で養蚕指導をしていた石川滝右衛門を支配人に任じ、商品作物春慶塗川連漆器白岩焼などの工芸品の生産を奨励させた。寛政5年(1793年)、辛労免高を開始し、蔵入地、家臣知行地によらず耕作を援助した。寛政7年(1795年)、蔵入地、家臣知行地の農政を統括させる藩内の各郡に郡奉行を設置した。文化2年(1805年)、賀藤景林を御財用吟味役木山方勤務兼帯とし林政改革当たらせ、また栗田定之丞による防砂林保全活動を継続させた。

文化4年(1807年)、露米会社武装集団によって択捉島が襲撃される、シャナ事件(文化露寇)が勃発したため幕府より蝦夷地警備が命ぜられ、陣場奉行の金易右衛門ら約600人を派遣する。文化11年(1814年)、石川滝右衛門の献言により絹方役所を設置し、滝右衛門をその支配人としたが技術不足から売り上げが伸び悩み3千両の赤字を出し失敗した。また、菅江真澄に出羽国の地誌を作って欲しいと依頼した。文化12年(1815年)7月8日、久保田城において死去。享年41。

詩歌や書画に造詣が深く、数多くの作品を残している。

秋田蕗

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義和は江戸で、この傘の代わりにもなるアキタブキの自慢をしたところ、他の大名から信じてもらえなかった。そこで藩主の名誉のために、領民は山野を捜索して1本の巨大フキを発見した。それを江戸に運び、藩主の名誉を回復したという。これによって、傘代わりにもなるこのフキの存在が国中に知られることとなったとするエピソードがある。しかし、このエピソードの初出は馬場文耕秋田騒動を描いた『秋田杉直物語』に佐竹義峯の事として載っている逸話で、馬場文耕は宝暦8年12月29日(1759年1月27日)に処刑されているので、佐竹義和のエピソードとするのには矛盾が発生する。また、山本周五郎の小説『蕗問答』(1940年)では、義和の父である佐竹義敦のエピソードとされている。

主な著作

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  • 『御道の記』
  • 『千町田の記』
  • 『秋田つれづれ草』

系譜

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子女は3男3女。

  • 父:佐竹義敦(1748-1785)
  • 母:清(桂寿院、清瀧)(1755-1829) - 三木宇平太の娘
  • 正室:弥(仙松院)(1772-1816) - 堀田正順の娘
    • 長女:霊性院(1803-1805) - 夭折
  • 側室:三代嶋(玲光院)(1792-1821) - 北川一善の養女、渋谷雄徳の娘
    • 長男:佐竹義厚(1812-1846)
    • 次男:直千代(1813-1818) - 夭折
  • 側室:近藤氏
  • 養子

家臣

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武鑑掲載の家臣

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文化3年(1806年)刊行須原屋茂兵衛武鑑に掲載される主要家臣は下のとおり。なお、刊行の都合で内容は文化3年(1806年)以前の可能性が高い。

家老
用人
御城使(江戸留守居

偏諱を受けた人物

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関連作品

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わらび座ミュージカル『龍角散Presents・ゴホン!といえば』(2022年、脚本・演出:マキノノゾミ、佐竹義和と義堯、その他:内田勝之[1]

脚注

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参考文献

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