佐中 廉(さなか れん、文久2年(1862年12月27日 - 昭和13年(1938年10月5日)は日本教育者政治家。元余子小学校長、境小学校長。元余子村学務委員。元余子村長。幼名松太郎。

佐中 廉
さなか れん
生年月日 1862年12月27日
出生地 鳥取県西伯郡余子村大字福定
(現境港市福定町)
没年月日 (1938-10-05) 1938年10月5日(75歳没)
出身校 中野村木島仙庵の門
中野小
森山村寺本要塾
広瀬町山村勉斎塾
親族 父・佐中友太(余子村会議員)

第8代余子村
在任期間 1924年3月 - 1930年2月
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大阪府立大学名誉教授佐中壮の父。

経歴

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福定村農家佐中友太の長男として生まれる。中野村木島仙庵の門に入り、次いで中野小、森山村寺本要塾、広瀬町山村勉斎塾でよく学び、24歳の時教員検定試験に合格した。

明治21年(1888年)弓浜高等小学校創設にあたり、以来同校に勤務、校長村上龍の家族主義教育を20余年助けた。次いで校長に進んだがいったん職を退き、さらに余子小学校長、境小学校長を歴任して教育一筋につとめ、多くの人材を出した。

大正8年(1919年)道を後進に譲って帰村したが、推されて余子村長となった。

人物像

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佐中廉について、孫の佐中信によると、

「祖父は境尋常高等小学校長の職を退いて、福定の家で読書三昧の生活を送っていたが、恩師木嶋村長の厚い懇望と村民各位の強い推挙黙し難く、ついに村長を引き受けた。在任中には米川灌漑改修工事に鋭意力を尽くし校舎増築、村教育会創立、農道補修整備、防火用水池設置、国鉄駅設置運動等に不休の尽瘁を続けた。更に先見の明をもって、外浜県道沿いに役場を移し、昭和三年一一月字美保ノ原三九三番地(現余子公民館敷地)に新しい庁舎を建築した。この際も自ら私有地の土砂を土盛り用に大量寄附する等、何事も率先奉仕を実践する名実共に夫子(ふうし)の風格を備えた人物であった。」

参考文献

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  • 『境港市史(上巻)』
  • 『鳥取県大百科事典』371頁

外部リンク

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