佐中壮
日本の東洋史学者 (1903-1992)
佐中 壮(さなか そう、1903年(明治36年)6月11日[1] - 1992年(平成4年)4月13日[2])は、日本の東洋史学者。大阪府立大学名誉教授。
経歴
編集鳥取県西伯郡余子村大字福定(現境港市福定町)に佐中廉の次男として生まれる。
米子中学校、松江高等学校を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科において藤田豊八や池内宏らに学ぶ。1928年(昭和3年)に卒業し、山口高等学校講師、ついで同教授となり、1931年(昭和6年)より広島高等学校教授に転じる。1944年(昭和19年)、松山高等学校教授となるが、終戦によりただちに辞表を提出、同校の再開整備にあたった後に退官し、帰農。
1947年(昭和22年)より大阪鉄道教習所に勤務の後、1949年(昭和24年)から大阪青年師範学校[3]教授、1950年(昭和25年)には浪速大学(1955年大阪府立大学に改称)助教授。1953年(昭和28年)に同教授、1962年(昭和37年)には学位論文「戦国・宋初間の信仰と技術の関係」により東北大学から文学博士の学位を受ける。
1967年(昭和42年)に停年退官して同大名誉教授、また皇學館大学教授となり、1974年(昭和49年)までつとめた。この年、勲三等旭日中綬章を受章。
人物
編集家族
編集- 佐中家
著書
編集- 『名和公画像記と名和公碑』五典書院、1969年
- 『戦国・宋初間の信仰と技術の関係』皇學館大学出版部、1975年
脚注
編集参考文献
編集- 大阪図書出版株式会社編『大阪紳士録 第1版』大阪図書出版、1959年。