佐与姫(さよひめ、寛永10年(1633年) - 延宝4年8月5日1676年9月12日))は、江戸時代前期の女性。第2代土佐藩主・山内忠義の次女、土佐藩家老・山内(乾)信勝の正室[1]。正式名は「山内佐与」。

佐与姫の墓(南国市・永源寺)

来歴

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寛永10年(1633年土佐藩主・山内忠義の次女として土佐国高知城三之丸に生まれる。母は忠義の側室・寿性院[1]

母の寿性院土佐国安芸郡安芸町出身の一般庶民で、のちに土佐藩主・山内忠義に見初められて側室となったことから俗に「土佐のシンデレラ」と呼ばれる。母は「三之丸」に住んだことから「三之丸様」と呼ばれた。俗名を「安喜(あき)」と記すものもあるが[1]、「安芸郡」出身であったことから付けられた俗称と考えられ、実名は不詳である[2]

佐与姫は母・寿性院とともに高知城「三之丸」で育ち、慶安5年(1652年)頃、土佐藩家老(4,500石)・山内将監信勝に嫁いだ[2]

夫の信勝は「虎乾」の異名をもつ文武に優れた家老で、本姓乾氏。山内家の股肱の臣として仕え、「山内」姓の使用を許された乾備後和三の孫にあたる。所領は国分村に360余石、比江村に250余石、植田村に400余石などで、土佐城下に住した[3]

信勝の屋敷は現在のひろめ市場の場所にあり、佐与姫はこの場所に住して三男三女を生んだ[4]

承応2年11月29日(1654年1月29日)、長女・松子を出産[2]。承応4年3月5日(1655年4月11日)、長男・乾信和(猪之助、市正、彦作と称す)を出産[2]。(のち乾家第5代当主を継ぐ。信和の長女の名も同じ「佐与姫」)明暦2年11月12日(1656年12月27日)、次男・乾成勝(信宜、丹六、作兵衛と称す)を出産[2]。明暦3年12月2日(1658年1月5日)、次女・与祖(よそ)を出産[2]寛文2年9月14日(1662年10月25日)、三男・乾三次を出産[2]。三次は七歳で夭折[2]。寛文3年12月7日(1664年1月5日)、三女・菊子(幼名「乙松」)を出産。菊子は山内半左衛門倫氏に嫁いだ[2]

寛文12年4月9日(1672年5月6日)、夫・信勝が享年45歳で歿すると、落飾して「正蓮院」と称した[2]

延宝4年8月5日1676年9月12日)死去[2]。享年44歳。法名は正蓮院殿心譽宗月信女。古峯山乾流寺(現・南国市永源寺)に葬られた[3]。また遺骨の一部は、遺言により生母・寿性院が眠る高知市三ノ丸の墓所にも埋葬されている[2]

乾家の大墓

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土佐藩家老・乾家の墓石は巨大であることが知られ、とりわけ山内(乾)和三、山内(乾)和成、山内(乾)信勝らの墓石は群を抜いて大きい。その中で、信勝は藩主の娘を正室に迎えたため、佐与姫の墓石はそれを越える大きさに作られ最上座に建てられた[3]乾家の家紋「丸に桔梗」と土佐藩主の定紋「土佐柏」が附されている[3]

補註

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  1. ^ a b c 土佐高知藩主家・山内氏系譜
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『土岐・乾系譜』高知県立歴史民俗資料館蔵
  3. ^ a b c d 『土佐藩家老物話』松岡司著、高知新聞社、2001年11月28日、62-66頁、244-247頁
  4. ^ この場所が現在ひろめ市場と呼ばれているのは、乾和三の屋敷があった場所に、高知城下の大火と乾氏失脚によって屋敷替えがあり、南邸・深尾家の屋敷となったからで、幕末に土佐藩家老・深尾弘人蕃顕の屋敷として知られたからである。

参考文献

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  • 『土佐藩家老物話』松岡司著、高知新聞社、2001年11月28日
  • 『土岐・乾系譜』高知県立歴史民俗資料館
  • 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号)
  • 『土佐藩ゆかりの会会報』(平成30年号)、2018年