佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年明治8年)4月13日 - 1926年大正15年)3月6日)は、日本仏教学者教育者大谷大学教授。のち大谷大学学長。清沢満之門下。著作に『親鸞聖人伝』、『支那浄土教史』などがある。

佐々木 月樵
人物情報
別名 山田 月樵
生誕 (1875-04-13) 1875年4月13日
日本の旗 日本 愛知県安城市
死没 1926年3月6日(1926-03-06)(50歳没)
出身校 真宗大学
学問
研究分野 仏教学者
研究機関 大谷大学
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経歴

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幼少期から就学期

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1875年、三河国安城町大字古井にある真宗大谷派の願力寺に生まれた。幼少時、豊後国日田咸宜園(大谷派長福寺[1]の学寮を起源とする)に学び、1888年明治21年)、東本願寺が設置した三河育英教校に入学。その後、1893年(明治26年)、京都府立尋常中学校に編入、翌年には東本願寺設置の京都第一中学寮に入学した。1896年、同校を卒業。真宗大学(後の大谷大学)に入学し、1900年に卒業した。この間、1898年(明治31年)、愛知県矢作町の真宗大谷派上宮寺住職の養子となり入寺、佐々木と改姓している[2]

真宗大学卒業後、師である清沢満之東京で始めた私塾浩々洞近角常観留守宅)の設立に加わり、洞発行の雑誌『精神界』[3]の発刊に尽力した。また、1901年には清沢の推挙により、東京に移転・開校した真宗大学の講師となった。翌年、清沢の学長辞任に伴って同校を一旦退くも、後に同校研究院に入学。1906年に研究院を修了後、教授に就任した。

真宗大学教授時代

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真宗大学教授就任後は、大乗仏教および浄土真宗の教学・歴史の研究に専念し、多くの成果を挙げた。その一方で、同僚の教授らと協力して、近代的な仏教学の確立を目指し、広く人文科学研究に目を配り、伝導においても近代的教育方法論なども取り入れて仏教基礎学の教授法の改良を積極的に推進した。1911年、真宗大学の京都移転に反対して他の教授とともに辞職するも翌年復職。以後、南条文雄(2代学長)のもとで同校の教学・組織・施設各方面における整備に尽力した。

1921年には、師清沢満之を介して以前より親交のあった沢柳政太郎を団長とする、文部省の欧米視察団に同行。同視察団の派遣に際しては、経済・教育・宗教の各分野から団員が選ばれたが、佐々木は宗教分野の代表として私立学校からの唯一の団員として参加した。

1924年大谷大学第3代学長に就任。前年に大学令に基づく私立大学として発足した同校において、近代的な視点と方法論とに基づく仏教学・人文科学の研究・教育を本格的に始動させた。その意図・目的については、学長就任の翌年、入学宣誓式において行った演説「大谷大学樹立の精神」に明示されている。

学長在任中に行われた主な事項には、以下がある。

  • 全般にわたっての特色
    • 仏教への理解を基礎とし、その上に、仏教科、哲学科、人文科を鼎立させる。
    • 仏教科の中に真宗学を置く。
  • 基礎的学習課程としての予科の重視

人員の点でも、大学の枠を超えて京都帝国大学に就任した西田幾多郎を非常勤講師として大谷大学に招聘。さらに西田の助力により鈴木大拙を同大学教授に招聘するなど、当時の人文諸学の研究者・研究機関と幅広く交流し、学問的連携を深めたたことも特筆される。これらの特色は、単に一学校における事例としての意味にとどまらず、近代日本において、仏教の学びを基礎に置く人文諸学の研究・教育に関しての理念・方法論および実践をいち早く提示した事例として注目にされる。

しかしながら、学長就任の翌年には体調を崩して辞任。翌1926年3月6日急性肺炎のため逝去した。告別式に際し、鈴木大拙は、「これからどうすればよいか」と嘆き[4]、西田幾多郎は、「佐々木学長の大学構想は、帝国大学と一線を画しているので期待していたのに」とその急逝を惜しんだとされる。

著作

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著書・編書

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佐々木月樵に関するリンク

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関連人物

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脚注

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先代
南条文雄
大谷大学
3代学長:1924-1926
次代
村上専精