佐々木喜善
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年10月5日 - 1933年9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが佐々木自身は、資料収集者であり学者ではないと述べている[1]。
佐々木 喜善 (ささき きぜん) | |
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誕生 |
1886年10月5日 日本・岩手県遠野市土淵(旧・土淵村) |
死没 |
1933年9月29日(46歳没) 日本 |
職業 |
作家 文学者 文学研究者 民俗学者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学士 |
最終学歴 | 早稲田大学文学科卒業 |
ジャンル |
小説 民話、伝承、口承文学などの収集、編集、それに対する研究 |
主題 |
民俗学 口承文学 民話 日本思想 |
代表作 |
『聴耳草紙』 『遠野のザシキワラシとオシラサマ』 『遠野奇談』 その他多数 |
影響を与えたもの
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ウィキポータル 文学 |
来歴・人物
編集オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。
岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、祖父の医者になる期待を背負い、明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、医師としての将来を思い描くことができず、二年後に中退する。
その後、祖父の反対を押し切って上京、哲学館(現・東洋大学)に入学するが、文学を志し早稲田大学文学科に転じる。この間、佐々木は終生の友人となる水野葉舟と出会い、日に一度はお互いの下を訪ね合う程になる。1905年(明治38年)頃、親友の水野から勧められる形で筆を執り、佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を発表し始める。1907年(明治40年)、短編小説『長靴』が、憧れであった文芸雑誌『藝苑』に発表され好評を得る。喜善はその後も精力的に作家としての創作活動を続けることとなった。
1908年(明治41年)11月4日、佐々木は水野の紹介によって柳田國男に知己を得、牛込加賀町の官舎を尋ねる。このとき、喜善は学者とばかり思っていた柳田の役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らったという。晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている。その後、柳田は喜善の下宿を訪ねたり、また、喜善が求めに応じて柳田の下を訪ねるやりとりが始まり、この時、喜善の語った遠野郷の民話や伝説を基に、柳田が『遠野物語』を著す。
1910年(明治43年)に病気で大学を休学し、岩手病院へ入院後、郷里に帰る。その後も作家活動と民話の収集・研究を続けるものの、小説家としては以後会心の作に恵まれなかったことと、柳田の影響や要請もあり、次第に郷里である遠野の民話や伝説収集に文筆活動の主軸を移してゆく。この間に『遠野物語』にも登場する辷石たにえから聞いた昔話をまとめた『老媼夜譚』[2]や『遠野雑記』『奥州のザシキワラシ』『江刺昔話』『東奥異聞』『聴耳草紙』などの民話集を発表した。
民話収集の傍ら、上閉伊郡土淵村の村会議員・村長(在任:1925年9月27日 - 1929年4月4日)を務めるが、村長職という慣れない重責に対しての心労が重なり職を辞す。同時に多額の負債を負った喜善は家財を整理し仙台に移住。以後生来の病弱に加え生活は困窮し、数え年48歳で病没。神棚の前で「ウッ」と一声唸っての大往生だったという。「日本のグリム」の名は、喜善病没の報を聞いた言語学者の金田一京助によるもの。
1919年(大正8年)、「ザシキワラシ」の調査のために照会状を出して以来、1921年(大正10年)まで『アイヌ物語』の著者である武隈徳三郎と文通がある[3]。
詩人・童話作家の宮沢賢治とも交友があった。1928年(昭和3年)、賢治の童話『ざしき童子のはなし』の内容を自著に紹介するために手紙を送ったことがそのきっかけである[注 1]。その後、1932年(昭和7年)になって喜善は賢治の実家を訪れて数回面談した[4]。賢治は当時既に病床に伏していたが、賢治が居住していた稗貫郡花巻町(現在の花巻市の中心部)と遠野市の地理的な近さもあり、晩年の賢治は病を押して積極的に喜善と会っていたことが伺われる。
幼少期から怪奇譚への嗜好があり、哲学館へ入学したのは「井上円了の妖怪学の講義を聞くためだった」という。しかし、実際は臆病な性格だったらしく、幼少時、祖父から怪談話を聞いた夜は一人布団に包まってガタガタ震えていたこともあった。また、巫女や祈祷師にすがったり、村長をつとめていた際も自身の見た夢が悪かったため出勤しないなどの行動があった。1903年(明治36年)にはキリスト教徒となるが、のち1927年(昭和2年)には神主の資格を取得。1929年(昭和4年)には、京都府亀岡町(現・亀岡市)の出口王仁三郎を訪問し、地元に大本教の支部を作っている。また、佐々木は一般に流布しているイメージのような「素朴な田舎の語り部」ではなく、モダン好みの作家志望者であり、彼が昔話の蒐集を始めるようになったのは、作家として挫折したためである[5]。
主な著作には、昔話集では『紫波郡昔話』、『江刺郡昔話』、『東奥異聞』、『農民俚譚』、『聴耳草紙』、『老媼夜譚』。研究・随筆では『奥州のザシキワラシの話』、『オシラ神に就いての小報告』、『遠野手帖』、『鳥虫木石伝』ほかがある。
顕彰施設
編集- 佐々木喜善記念館(遠野伝承園内)
文献
編集著作
編集- 『佐々木喜善全集』(全4巻、遠野市立博物館刊)
- 『江刺郡昔話』(郷土研究社「炉辺叢書」1922年、名著出版 1976年)
- 『紫波郡昔話』(郷土研究社「炉辺叢書」1926年、名著出版 1976年)
- 『東奥異聞』(坂本書店「閑話叢書」1926年)
- 『聴耳草紙』(三元社 1931年、中外書房 1933年)
- 『農民俚譚』(一誠社、1934年)
- 『上閉伊郡昔話集』(三省堂、1943年)
- 『遠野のザシキワラシとオシラサマ』、山田野理夫編(宝文館、1974年、新装版1988年)、中公文庫BIBLIO(桜庭一樹解説)、2007年
- 『遠野奇談』、石井正己編(河出書房新社、2009年、新装版2020年)
- 『ザシキワラシと婆さま夜語り』(河出書房新社、2020年)
伝記・作品研究
編集- 山田野理夫 『柳田國男の光と影-佐々木喜善の生涯』農山漁村文化協会「人間選書」、1977年
- 岩本由輝『もう一つの遠野物語』刀水書房 1983年、増訂版1994年
- 松本三喜夫 『柳田「民俗学」への底流 柳田国男と「炉辺叢書」の人々』青弓社、1994年
- 第2章「『遠野物語』の夢──佐々木喜善と『江刺郡昔話』など」、のち電子書籍化
- 石井正己 『「遠野物語」を読み解く』 平凡社新書、2009年
- 石井正己 『遠野物語の誕生』 若草書房、2000年/ちくま学芸文庫、2005年
- 石井正己 『柳田国男と遠野物語』 三弥井書店、2003年
- 石井正己 『「遠野物語」へのご招待』 三弥井書店、2010年 - 佐々木喜善「聴耳草紙」の再発見 ほか
- 鈴木修『令和版 佐々木喜善年譜』ツーワンライフ出版、2023年(90頁を超える、現在のところ最も詳細な佐々木喜善の年譜。従来の参考書籍や諸資料の情報を整理し集約、日記や書簡の情報を精査し採用している。)
- 文芸作品
脚注
編集注釈
編集- ^ 賢治が1928年8月8日付で返信として出した書簡が賢治の全集に収録されている。