伊藤長弘
安土桃山時代の武将
伊藤 長弘(いとう ながひろ)は、安土桃山時代の武将。豊臣家の家臣。通称は弥吉(彌吉とも)。諱は長俊ともいわれる(『金剛寺文書』)。
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 長俊、通称:弥吉(彌吉) |
官位 | 対馬守 |
主君 | 豊臣秀吉 |
氏族 | 伊藤氏(系統不明) |
妻 | 井戸村光慶の娘 |
子 | 半左衛門、武蔵守 |
略歴
編集出自は不明。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の直参衆として弓鉄砲衆の組頭(鉄砲大将)を務めた1人。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは秀吉本隊の四番隊に入り、150名を率いる。同12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、同13年(1585年)の紀州征伐に従軍。同18年(1590年)の小田原征伐でも秀吉本隊で300騎を指揮した。
文禄元年(1593年)の文禄・慶長の役においても同様に秀吉本陣の弓鉄砲衆として250名を率いて肥前国名護屋城に在陣した。同4年(1595年)の秀吉の草津湯治では、河井九兵衛と共に山宿の警護役を務めた。慶長3年(1598年)、従五位下対馬守に叙任。同5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伏見城の戦いに参加した。その後は同じく西軍に属した石川貞清や生熊長勝と共に犬山城の守備にあたったとされる。戦後は牢人の身となったが親交が深かった福島正則に匿われ同家に寄食し、まもなく病死した。
出典
編集- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、24頁。
- 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、122-123頁。ASIN B000J9GTRU
- 北川央監修、柏木輝久著 『大坂の陣 豊臣方人物事典』宮帯出版社、2016年、133-134頁。