伊藤芳明
伊藤 芳明(いとう よしあき、1933年12月30日 - )は、静岡県浜名郡北浜村貴布祢(現:浜松市浜名区)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県浜名郡北浜村貴布祢(現:浜松市浜名区貴布祢)[1] |
生年月日 | 1933年12月30日(91歳) |
身長 体重 |
175 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1959年4月11日 |
最終出場 | 1969年8月31日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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経歴
編集中学時代に野球を始めるが、肩が強く左投げだったため投手となる[2]。興誠商業高校では2年生からエースとなり[1]、3年次の1951年の夏の甲子園の静岡県予選の前には新聞に「ダークホース」と書かれたが、1回戦で静岡市立高校に0-1で敗れた[2]。
1952年に中央大学へ進学すると、1年の春季から東都大学リーグで登板。2年次の1953年春季のリーグでは5勝を挙げて中央大学の全勝優勝に貢献する[2]。同年の大学選手権でも勝ち上がるが、決勝で立大に敗れ準優勝となった。しかし、同年の夏場に背中の筋肉を痛める。秋季リーグには投げられるまで回復するが、以降は投球時に肘が下がりそれまで得意としていた縦のカーブが横に曲がるようになって、制球力に課題を抱えることになったという[2]。1954年秋季リーグの対東農大戦でリーグ史上4人目のノーヒットノーランを記録するも[1]、11四球を与えピンチの連続の中での達成であった[2]。リーグ通算57試合登板、21勝13敗。大学同期に鈴木隆、穴吹義雄がいる。
卒業後は日本生命に入社する。1年目の1956年の都市対抗では予選で敗退。もとより練習好きであったが、この敗戦以降、徹底的に練習に取り組むようになったという[2]。1957年の都市対抗に出場。倉敷レイヨンとの2回戦(初戦)で先発するが、麻生実男の2点本塁打で逆転を許し、チームは延長10回の末に敗退した。1958年も都市対抗に出場[1]。1回戦で、後にプロで同僚となる日本通運の堀本律雄と投げ合うが惜敗した。2年連続で都市対抗に出場したことから注目を集め、在阪のNPB球団を中心に争奪戦となる。一旦、伊藤は広島カープと入団合意するが、広島のスカウトが契約書を広島に取りに戻っている間に、読売ジャイアンツの球団代表・宇野庄治の訪問を受けて熱心に勧誘され、翻意して巨人へ入団した[2]。
1959年に巨人へ入団すると、同じ新人の王貞治と同部屋であった[3]。オープン戦から好調で[4]、前年度29勝を挙げて最優秀選手となった藤田元司を差し置いて、新人ながら開幕投手を務める。金田正一と投げ合って、勝ち負けは付かなかったが6回を1失点に抑え、以降先発ローテーションに加わった[2]。シーズンでは、36試合に投げ7勝9敗防御率2.98を記録する[1]。
1960年初めての二桁となる10勝(9敗)で堀本律雄(29勝)に次ぎ、1961年は13勝(6敗)で中村稔(17勝)に次ぐチーム2位の勝ち星を挙げた。特に、1961年は勝率.684で最高勝率のタイトルを獲得するとともに、防御率2.11もリーグ3位の好成績で、川上哲治監督の初優勝に貢献している。1962年は城之内邦雄の入団や藤田元司の復調もあって、伊藤は救援投手へ転向させられ、開幕から勝ち星を挙げられない状態が続く。この状況の中で、伊藤は投手コーチの別所毅彦に対して、救援はやりたくないと不満を述べるが、首脳陣への反抗とみなされ、即座に伊藤は二軍に落とされた。しかし、同年8月に別所が中村稔に対する鉄拳制裁事件を起こして退団。これと前後して伊藤は一軍に戻されて先発ローテションへ復帰し、閉幕までに4勝を挙げた[2]。同年オフに永子夫人と結婚している[2]。
1963年には再び先発投手に復帰して10完封を含む19勝8敗防御率1.90(リーグ2位)とチームの勝ち頭となり、2年ぶりのリーグ優勝に貢献、沢村賞のタイトルにも輝いた[1]。1964年は春季キャンプでの左足の肉離れから投球フォームを崩して、11勝と勝ち星を減らす[4]。1965年は肩の故障に加え、同じ先発左腕の金田正一の加入により出番が減少し、わずか2勝に終わると[5]、同年オフに池沢義行・久保田治・島田雄二との1対3のトレードで東映フライヤーズへ移籍した。
東映ではたびたび先発投手も務めたほか、ワンポイントや敗戦処理など何でもこなした。巨人時代なら爆発していたかもしれないが、この時は達観していたというか淡々とやっていて、それがよかったんじゃないか、と伊藤自身が回想している[2]。結局、4シーズンでわずか5勝と不本意な成績に終わり、未勝利となった1969年限りで引退した。新人の年を含め開幕投手を3回、オールスターゲームにも3度出場している[1]。
1970年から巨人に戻ってスカウトになり[6]1979年まで務めた。1980年のみ二軍投手コーチを挟んで、1981年から2000年まで再びスカウト。
選手としての特徴
編集威力のある重い球質の速球とドロップを得意とした[5]。ピッチングは力強かったが、投球フォームはコックンコックンしてリズム感に乏しかったという[3]。
人物
編集巨人に入団した当初から新人離れした風貌で、おっちゃんのニックネームで呼ばれた[5]。他人の悪口を決して言わず、誰からも好かれる誠実な人柄であった[4]。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1959 | 巨人 | 36 | 26 | 6 | 4 | 1 | 7 | 9 | -- | -- | .438 | 627 | 154.0 | 115 | 16 | 64 | 0 | 2 | 131 | 1 | 0 | 58 | 51 | 2.98 | 1.16 |
1960 | 53 | 26 | 5 | 1 | 0 | 10 | 9 | -- | -- | .526 | 747 | 187.2 | 150 | 20 | 58 | 5 | 1 | 157 | 4 | 0 | 76 | 67 | 3.21 | 1.11 | |
1961 | 51 | 19 | 1 | 1 | 0 | 13 | 6 | -- | -- | .684 | 778 | 187.2 | 146 | 9 | 83 | 0 | 3 | 166 | 2 | 1 | 49 | 44 | 2.11 | 1.22 | |
1962 | 39 | 16 | 3 | 1 | 0 | 4 | 5 | -- | -- | .444 | 520 | 123.0 | 108 | 9 | 55 | 4 | 2 | 96 | 5 | 1 | 44 | 37 | 2.71 | 1.33 | |
1963 | 39 | 32 | 18 | 10 | 2 | 19 | 8 | -- | -- | .704 | 917 | 236.1 | 153 | 12 | 78 | 1 | 1 | 166 | 3 | 0 | 56 | 50 | 1.90 | 0.98 | |
1964 | 44 | 31 | 9 | 2 | 1 | 11 | 12 | -- | -- | .478 | 847 | 206.2 | 173 | 21 | 75 | 2 | 4 | 130 | 1 | 2 | 84 | 79 | 3.43 | 1.20 | |
1965 | 23 | 13 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | -- | -- | .286 | 277 | 66.2 | 41 | 10 | 31 | 1 | 0 | 55 | 0 | 0 | 33 | 31 | 4.16 | 1.08 | |
1966 | 東映 | 37 | 10 | 2 | 0 | 0 | 1 | 3 | -- | -- | .250 | 363 | 90.2 | 75 | 7 | 31 | 0 | 1 | 59 | 0 | 0 | 34 | 28 | 2.77 | 1.17 |
1967 | 38 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | -- | 1.000 | 313 | 72.1 | 74 | 4 | 26 | 3 | 0 | 67 | 1 | 0 | 26 | 24 | 3.00 | 1.38 | |
1968 | 34 | 16 | 1 | 0 | 1 | 3 | 5 | -- | -- | .375 | 404 | 90.0 | 93 | 12 | 42 | 1 | 3 | 50 | 1 | 0 | 49 | 39 | 3.90 | 1.50 | |
1969 | 17 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 120 | 28.1 | 28 | 4 | 11 | 1 | 0 | 16 | 0 | 0 | 12 | 10 | 3.21 | 1.38 | |
通算:11年 | 411 | 195 | 45 | 19 | 5 | 71 | 63 | -- | -- | .530 | 5913 | 1443.1 | 1156 | 124 | 554 | 18 | 17 | 1093 | 18 | 4 | 521 | 460 | 2.87 | 1.18 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
編集- 最高勝率:1回 (1961年)
表彰
編集- 沢村栄治賞:1回 (1963年)
記録
編集- オールスターゲーム出場:3回 (1961年、1963年、1964年)
背番号
編集- 21 (1959年 - 1965年)
- 12 (1966年 - 1969年)
- 73 (1980年)
脚注
編集参考文献
編集- 「懐かしのプレーヤーを訪ねて 想い出球人 第92回 伊藤芳明」『週刊ベースボール』2003年1月27日号、ベースボールマガジン社、2003年
- 『ジャイアンツ栄光の70年』ベースボールマガジン社、2004年
- 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年
- 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年
- 森岡浩 編著『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 伊藤芳明 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 浜松学院野球部後援会