伊王野資友
伊王野 資友(いおうの/いおの すけとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。伊王野氏21代目当主。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛永10年(1633年) |
別名 | 通称:又次郎 |
官位 | 豊後守(受領名) |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
氏族 | 伊王野氏 |
父母 | 父:伊王野資信 |
兄弟 | 資重、資友、資壽 |
妻 | 大田原綱清娘 |
子 |
千本義等室、伊王野資房室 養子:資房(井上新左衛門子) |
伊王野氏20代当主・伊王野資信の次男として誕生。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に属して下野大田原城に大田原晴清・服部正就・福原資保らと籠城した。兄・資重が上杉景勝勢を白河口の関山の戦いで破るが、負傷しその傷が元で死去したために家督を相続。戦後に本領の他に高根沢で2,000石加増され、2,738石の旗本となる。大坂の陣両陣にも従軍した。寛永4年(1627年)に伊王野館(お山城)より正福寺伽藍に居所を移した[1]。
寛永10年(1633年)、病死。なお、資友が病に倒れた際に、井上新左衛門より養子(数馬)を迎えて娘婿とし資房と名乗らせ、資友死後に家督を継ぐも同年10月に死去。急遽、兄資重の嫡男・資直に家督を継がせようとするが、江戸幕府の末期養子の禁により伊王野家は断絶となった。
脚注
編集- ^ 『伊王野城主元祖手輸』
出典
編集- 『伊藤文書』(所収 『伊王野城主元祖手輸』)
- 『栃木県の地名』(地方資料センター編 平凡社刊)
- 『戦国人名辞典』(高柳光壽編 吉川弘文館刊)