伊東武夫
伊東 武夫(いとう たけお、1889年(明治22年)7月6日[1] - 1965年(昭和40年)2月24日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
伊東 武夫 | |
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伊東武夫 | |
生誕 |
1889年7月6日 日本 福岡県 |
死没 | 1965年2月24日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1911 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
編集福岡県に生れる[1]。1909年(明治42年)、陸軍士官学校に入校し、1911年(明治44年)5月、同校(23期)を卒業[1][2]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官[2]。
1937年(昭和12年)7月、留守第6師団司令部付となり、翌月、歩兵大佐に昇進[3]。1938年(昭和13年)3月、第8国境守備隊第1地区隊長に就任し海拉爾要塞守備に従事[3]。1940年(昭和15年)3月、独立混成第9旅団付となり、同年8月、歩兵第114連隊長に就任し日中戦争に出征[3]。援蒋ルート遮断作戦に参加した[1]。
1941年(昭和16年)8月、陸軍少将に進級し第38歩兵団長に就任[1][3]。太平洋戦争開戦に伴い、第16軍隷下として蘭印作戦に参加しジャワ島を攻略[1]。次いで第17軍戦闘序列に編入[1]。
1942年(昭和17年)10月、ガダルカナル島の戦いに投入され、撤退するまで苦戦を続けた[1]。1944年(昭和19年)7月、独立混成第40旅団長に発令され、ニューアイルランド島守備を担当[1][3]。同年10月、陸軍中将に進み終戦を迎えた[1][3]。
戦後、戦犯容疑(間諜処刑事件)により拘留され、ラバウルでのオーストラリア軍軍事法廷において、1946年(昭和21年)5月24日、銃殺刑の判決を受けたが、同年10月28日に無罪となった[4]。
脚注
編集参考文献
編集- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 松浦義教『真相を訴える - ラバウル戦犯弁護人の日記』元就出版社、1997年。(改題『ラバウル戦犯弁護人 - 報復裁判に立ち向かった日本人』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年。 ISBN 4-7698-2508-0)