伊号第百六十四潜水艦
日本の潜水艦
伊号第百六十四潜水艦(いごうだいひゃくろくじゅうよんせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。伊百六十二型潜水艦(海大IV型)の3番艦。竣工時の艦名は伊号第六十四潜水艦。改名は戦没以後(亡失認定前)であり、伊164としての実際の活動は行っていない。
艦歴 | |
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計画 | 大正12年度艦艇補充計画 |
起工 | 1927年3月28日 |
進水 | 1929年10月5日 |
就役 | 1930年8月30日 |
その後 | 1942年5月17日戦没 |
除籍 | 1942年7月14日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:1,635トン 常備:1,720トン 水中:2,300トン |
全長 | 97.70m |
全幅 | 7.80m |
吃水 | 4.83m |
機関 | ラ式2号ディーゼル2基2軸 水上:6,000馬力 水中:1,800馬力 |
速力 | 水上:20.0kt 水中:8.5kt |
航続距離 | 水上:10ktで10,800海里[1] 水中:3ktで60海里 |
燃料 | 重油:230t |
乗員 | 58名 |
兵装 | 40口径十一年式12cm単装砲1門 留式7.7mm機銃1挺 53cm魚雷発射管 艦首4門、艦尾2門 八九式魚雷14本 Kチューブ(水中聴音機) |
備考 | 安全潜航深度:60m |
艦歴
編集- 1927年(昭和2年)3月28日 - 呉海軍工廠で起工。
- 1929年(昭和4年)10月5日 - 進水
- 1930年(昭和5年)8月30日 - 竣工。佐世保鎮守府籍となり第29潜水隊に編入[2][3]。
- 1934年(昭和9年)3月20日 - 予備艦となる[3]。
- 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を伊六十一型に改正[4]。
- 1939年(昭和14年)3月1日 - 予備艦となる[3]。
- 1940年(昭和15年)3月20日 - 第29潜水隊(伊61、伊62、伊64)は佐世保で第三予備艦となる[5]。
- 1941年(昭和16年)12月5日 - 第5潜水戦隊第29潜水隊に属し、三亜を出航。マレー作戦に参戦[2]。
- 1942年(昭和17年)1月7日 - カムラン湾を出航し、スマトラ南方海面で活動[2]。
- 1月22日1630 - 北緯01度43分 東経90度13分 / 北緯1.717度 東経90.217度のパダン西方600浬地点付近のインド洋で、ボンベイからスマトラへ航行中の蘭貨物船バン・オーバーストレーター(Van Overstraten、4,482トン)へ魚雷2本を発射するも命中しなかった。そのため、浮上して砲撃。これによりバン・オーバーストレーターは大破し、放棄された。漂流する同船へ3番発射管から魚雷1本を発射し、これを撃沈[6]。
- 1月28日 - 北緯10度12分 東経80度13分 / 北緯10.200度 東経80.217度のインド洋で、英船アイダー(Idar、391トン)を砲撃により撃破[6]。
- 1月29日 - 北緯12度55分 東経80度33分 / 北緯12.917度 東経80.550度のマドラス南西15浬地点付近で米客船フローレンス・ルッケンバッハ(Florence Luckenbach、4,988トン)を雷撃により撃沈[6]。
- 1月30日 - 北緯12度59分 東経81度00分 / 北緯12.983度 東経81.000度のインド東方沖合で印貨物船ジャラタン(Jalatarang、2,498トン)を砲雷撃により撃沈[6]。
- 1月31日 - 北緯13度00分 東経81度08分 / 北緯13.000度 東経81.133度の地点で、印貨物船ジャラパラカ(Jalapalaka、4,215トン)を砲撃により撃沈[6]。
- 2月5日 - ペナン着[2]。
- 3月6日 - ペナンを出航し、インド洋方面で活動[2]。
- 3月10日 - 第29潜水隊が解隊し、第30潜水隊に編入[2]。
- 3月13日 - 北緯14度00分 東経81度47分 / 北緯14.000度 東経81.783度のマドラス北東150浬地点付近で、コロンボからカルカッタへ航行中のノルウェー貨物船マベラ(Mabella、1,513トン)を砲雷撃により撃沈[6]。
- 4月2日 - ペナン出航[2]。
- 4月12日 - 佐世保入港[2]。
- 5月16日 - 佐世保出航。ミッドウェー海戦に参加のためクェゼリンに向けて航行[2]。
- 5月17日 - 九州南方沖(北緯29度25分 東経134度09分 / 北緯29.417度 東経134.150度)で司令塔に日の丸を掲げて浮上航走中、米潜水艦トライトンに発見される。トライトンは日の丸に照準を合わせて魚雷を発射。魚雷の命中を受け、艦体の一部は30メートルも吹き飛んだあと、艦尾から沈没[2]。生存者が周辺に漂流していたが、トライトンは15日に撃沈したトロール船船員を収容していて余裕がなく、救助はしなかった[7]。そのため、艦長の新名嘉雄少佐以下81名全員が戦死した[3]。
- 5月20日 - 伊号第百六十四潜水艦に改名。
- 5月25日 - 四国南方で亡失と認定[8]。
- 7月14日 - 除籍
撃沈総数5隻、撃沈トン数17,696トン。撃破総数1隻、撃破トン数391トン。
歴代艦長
編集※『艦長たちの軍艦史』430頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
編集- 駒沢克己 少佐:1930年3月1日 - 1930年4月10日
艦長
編集- 駒沢克己 少佐:1930年4月10日 - 1932年12月1日
- 藤谷安宅 少佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
- 大竹寿雄 少佐:1933年11月15日 - 1936年2月15日
- (兼)藤井明義 少佐:1936年2月15日 - 1936年3月10日
- 浜野元一 少佐:1936年3月10日[9] - 1936年5月5日[10]
- (兼)藤井明義 少佐:1936年5月5日[10] - 1936年6月30日[11]
- 藤井明義 少佐:1936年6月30日 - 1937年11月15日
- 殿塚謹三 少佐:1937年11月15日 - 1937年12月15日[12]
- 山田隆 少佐:1937年12月15日 - 1939年3月10日
- (兼)花房博志 少佐:1939年3月10日[13] - 1939年3月20日[14]
- 花房博志 少佐:1939年3月20日[14] - 1940年3月20日[15]
- 小川綱嘉 少佐:1940年3月20日[15] - 1940年7月26日[16]
- (兼)河野昌通 少佐:1940年7月26日[16] - 1940年10月30日[17]
- 小川綱嘉 少佐:1940年10月30日[17] -
- 新名嘉雄 少佐:1942年4月1日 - 1942年5月17日戦死
脚注
編集- ^ もしくは10ktで10,000海里(『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』p57の表より)。
- ^ a b c d e f g h i j k 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』72頁。
- ^ a b c d 『艦長たちの軍艦史』430頁。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ 『艦長たちの軍艦史』428頁。
- ^ a b c d e f 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』104頁。
- ^ #木俣潜p.203
- ^ 『日本海軍史』第7巻、356頁。
- ^ 『官報』第2755号、昭和11年3月11日。
- ^ a b 『官報』第2800号、昭和11年5月6日。
- ^ 『官報』第2848号、昭和11年7月1日。
- ^ 「海軍辞令公報 号外 第107号 昭和12年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072900
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第312号 昭和14年3月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第316号 昭和14年3月21日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第453号 昭和15年3月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第508号 昭和15年7月26日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078400
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第549号 昭和15年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079200
参考文献
編集- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』潜水艦伊号、光人社、1997年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
- 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年。ISBN 4-8099-0178-5。