伊作 教久(いざく のりひさ)は、室町時代武将薩摩国島津氏の分家・伊作氏6代当主。年代的に考えると「教」の字は当時の室町幕府将軍足利義教から下賜されたものと推測される。

 
伊作 教久
時代 室町時代
生誕 不明
死没 嘉吉2年1月19日1442年3月1日
改名 安鶴丸(幼名)→教久
別名 四郎左衛門尉
氏族 伊作氏
父母 父:伊作勝久、母:島津元久娘?
兄弟 教久島津忠国側室
犬安丸伊作久逸
養子:伊作久逸
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応永29年(1422年)、祖父であり伊作氏4代当主・伊作久義が弟の十忠により殺害されると、久義と共にいた教久の身にも危険が及ぶが、家臣に守られ居城の伊作亀丸城に篭城。島津宗家8代当主・島津久豊はこの騒動の原因が教久の父・勝久にあるとしたため、勝久は肥後国へ追放される。教久は縁故の市来氏に預けられることになった。永享5年(1433年)、島津宗家9代当主・島津忠国の弟・用久(当時守護代)の命で領地は大幅に減ったものの伊作へ復帰することになった。

嘉吉2年(1442年)、伊作にて死去。家督を継いだ子・犬安丸長禄2年12月4日1459年1月8日)に急死すると、島津忠国の三男・久逸が養子に入り、伊作氏を継承した。