伊作久逸
伊作 久逸(いざく ひさやす)は、戦国時代の武将。薩摩国島津氏の分家・伊作氏8代当主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 嘉吉元年(1441年) |
死没 | 明応9年11月11日(1500年12月2日) |
別名 | 島津久逸 |
氏族 | 島津氏→伊作氏 |
父母 |
父:島津忠国 母:心萃夫人(新納忠臣の娘) 養父:伊作教久 |
兄弟 |
友久、立久、久逸、勝久、忠経、守棟、忠弘、頼久、伊集院煕久室 養兄弟:犬安丸 |
妻 | 伊作教久の娘 |
子 | 善久 |
生涯
編集嘉吉元年(1441年)、島津氏第9代当主・島津忠国の三男として誕生。
長禄2年(1458年)、伊作氏7代当主・犬安丸が幼くして急死したため、伊作氏の養子に入り跡を継いだ。この伊作氏は、鎌倉時代の早い時期に分家し本家とは遠い関係にあったため、一族ながら家臣格の家柄であった。
文明5年(1473年)、薩摩守護である島津氏10代当主・島津立久の命で日向国櫛間にて伊東氏に備えていた。ところが、対立する有力分家の新納氏は、立久の死後、本家を継いだ11代当主・忠昌に久逸を伊作へ還すように願い出て、忠昌はこれを聞き入れた。これに久逸は反発し、日向の伊東氏や豊後国の大友氏に助力を請い、新納氏の飫肥城を攻撃、忠昌に叛旗を翻した。久逸ら連合軍は、忠昌の居城・鹿児島清水城に迫り、忠昌は妻子を伊集院一宇治城に避難させるまでになった。しかし、文明16年(1484年)、忠昌は分家である相州家の島津友久や薩州家・島津国久ら近い島津一族を率いて伊作氏の討伐に出陣する。末吉で敗れた久逸は櫛間に退却、同年降伏し、伊作へ戻ることとなった。
その後、明応3年(1494年)に嫡子・善久が下男により殺害されるという事件が起こった。久逸自身も薩州家の内紛に介入し、明応9年(1500年)に薩州家の島津忠興に攻められ戦死した。享年60。