仙石秀範
安土桃山時代から江戸時代初期の武将
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2021年5月) |
仙石 秀範(せんごく ひでのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。仙石秀久の次男。官位は従五位下・豊前守。名は久倫とも。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 生年不詳 |
死没 | 没年不詳 |
改名 | 秀範、宗也斎(号) |
別名 | 久倫、権兵衛(通称) |
官位 | 従五位下・ 豊前守 |
主君 | 豊臣秀頼 |
氏族 | 仙石氏 |
父母 |
父:仙石秀久 母:本陽院(野々村幸成の娘) |
兄弟 | 久忠、秀範、忠政、政能、政直、久隆 |
子 | 長太郎、徳 |
生涯
編集仙石秀久の次男として生まれる。母は野々村幸成の娘(本陽院)。慶長4年(1599年)、豊臣家から3000石を与えられて従五位下・豊前守に叙任された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後、東軍に与した父から廃嫡された上に勘当されて浪人となり、出家して京都で寺子屋の師匠を務めていたという。
慶長19年(1614年)に大坂の陣が始まると、弟の仙石忠政が徳川方に与したのと異なり、豊臣方として大坂城に入って戦った。このとき、豊臣家から大名衆として3万石前後の所領を与えられている。しかし翌年の夏の陣で豊臣氏の敗北が決定的となると、丹波に逃亡した。その後の秀範の行方は不明である。夏の陣で討死したともいわれている。
ただし、10歳になる息子長太郎は伯耆で捕らえられ、夏の陣後の閏6月22日に六条河原で乳母の子供と共に斬られ、晒し首にされた。ほかに徳という女子がおり、叔父の仙石忠政に預けられ、寛永12年(1635年)に没した。
参考文献
編集- 「寛政重修諸家譜 巻第306」