仁平氏(にだいらし・にへいし)は日本武家

家紋 酢漿草

本姓源氏家系清和源氏の一家系 河内源氏棟梁 鎮守府将軍源頼義の三男 新羅三郎義光の流れを汲む常陸源氏 佐竹氏庶流常陸守護である佐竹氏被官であり、佐竹氏の戦国大名化に伴い、家臣となった。関ヶ原の戦い後、佐竹義宣が、秋田転封となり、秋田藩士となった家系、常陸国内に留まり、水戸藩郷士となった家系とがある。

秋田藩士 仁平氏

編集

佐竹義宣に従い、秋田藩士となった仁平氏は知行60石。仁平氏については『諸士系図』並びに『仁平氏系図』などに詳しい[1]

1.仁平彦兵衛某

編集

『仁平氏系図』並びに『仁平宗家系図』に仁平氏の宗家の系図がある[2]文化2年(1805年7月、秋田藩に系図を提出する。

系譜 仁平彦兵衛-治右衛門高頼-源助高広-治右衛門高康-高命-高皓-治右衛門高徳

なお、『仁平氏系図』には、長右衛門某角右衛門貞吉羽右衛門之苗仁平惣左衛門忠吉仁平宅左衛門某らの名も見える。また、仁平源助高広の女は同族 仁平茂左衛門の妻となるという[3]

2.仁平新右衛門高季

編集

また、『仁平氏次男系図』には以下の系図がある。仁平宗家の分家である。仁平某(初代)が佐竹義宣に従い、秋田に移住するという[4]。文化2年(1805年)8月、秋田藩に系図を提出する。

系譜 仁平某(初代)-某(二代)-某(三代)‐某(四代)-某(五代)-某(六代)-高光-高寛-新右衛門高季

3.仁平惣左衛門久吉

編集

さらに、『仁平氏系図』に次の系統も掲載されている。仁平宗家の分家にあたる。仁平彦兵衛の四男が分家し、仁平惣左衛門忠吉と名乗るという[4]。文化2年(1805年)7月、秋田藩に系図を提出する。

系譜 仁平惣左衛門久吉-国吉-忠吉-久富-伊左衛門久政

4.仁平初五郎高當

編集

また、『仁平系図』に仁平宗家の仁平源助高広の次男 高冨の家系がある[4]。文化2年(1805年)7月、秋田藩に系図を提出する。

系譜 仁平高冨-高道-高恩-高融-高當

5.仁平伝左衛門久當

編集

また、『仁平氏支流系図』に仁平惣左衛門久吉の次男 高吉を祖とする家系がある[4]。文化2年(1805年)8月、秋田藩に系図を提出する。

仁平高吉-角右衛門貞吉-久信-久忠-久次-伝左衛門久當

6.仁平市左衛門久徳

編集

『仁平分流系図』に仁平惣左衛門久吉の三男 元明を祖とする家系がある[4]。文化2年(1805年)7月、秋田藩に系図を提出する。

系譜 仁平元明-元苗-久正-高通-吉通-高記-市左衛門久徳

7.仁平文右衛門清忠

編集

『仁平氏系図』に仁平茂左衛門分流の家系がある[4]。文化2年(1805年)8月、秋田藩に系図を提出する。

系譜 仁平某-某-某-文右衛門清忠

水戸藩郷士 仁平氏

編集

また、佐竹氏の秋田転封後も常陸国に在国した仁平氏の系統が、水戸藩郷士として見える。『安政二年義民賞典禄』に、茨城郡小川村仁平内蔵太の名か見える[5]。また、同郡吉田村仁平彦兵衛の長男 仁平松次郎致知天狗党の乱に天狗方として加わり、元治元年(1864年8月22日、水戸市の新町口で降伏して翌日亡くなるという。維新後、靖国神社に合祀される[6]

脚注

編集
  1. ^ 『諸士系図』については常陸大宮市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸大宮市、1982年)308頁、仁平氏の『宗家系図』については秋田県公文書館編『系図目録I (PDF) 』(秋田県公文書館、2001年)48頁、秋田県公文書館編『系図目録II (PDF) 』(秋田県公文書館、2002年)109頁参照。
  2. ^ 前掲秋田県公文書館『系図目録I』48頁。前掲秋田県公文書館編『系図目録II』109頁。
  3. ^ 前掲秋田県公文書館『系図目録I』48頁。
  4. ^ a b c d e f 前掲秋田県公文書館編『系図目録II』110頁。
  5. ^ 仁平内蔵太の身分は出格の儀、代々苗字帯刀、御送迎格という。瀬谷義彦『水戸藩郷士の研究』(筑波書林2006年)312頁参照。
  6. ^ 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社1986年)227頁参照。

参考文献

編集
  • 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)ISBN 4404013353
  • 秋田県公文書館編『系図目録I (PDF) 』(秋田県公文書館、2001年)
  • 秋田県公文書館編『系図目録II (PDF) 』(秋田県公文書館、2002年)
  • 瀬谷義彦著『水戸藩郷士の研究』(筑波書林、2006年)ISBN 4-86004-064-3
  • 常陸大宮市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸大宮市、1982年)

関連項目

編集