京王デハ1700形電車(けいおうデハ1700がたでんしゃ)は、京王帝都電鉄井の頭線、次いで京王線で使用されていた通勤形電車である。

東急デハ1700形電車
→京王デハ1700形電車
基本情報
運用者 東京急行電鉄
京王帝都電鉄
製造所 汽車製造東京製作所
製造年 1946年-1947年[1]
製造数 7
運用開始 1946年
運用終了 1972年5月23日[3]
廃車 1972年9月30日[2]
投入先 井の頭線京王線
主要諸元
軌間 1,067 mm1,372 mm
電気方式 直流1,500V(架空電車線方式)
車両定員 130人
自重 38.0t
全長 17.040 mm
車体長 16.020 mm
全幅 2,740 mm
車体幅 2,680 mm
全高 4,200 mm(集電装置あり)
車体高 3,690 mm(集電装置なし)
床面高さ 1,180 mm
車体 半鋼製
台車 汽車KS-4
主電動機 日立製作所 HS-267D
主電動機出力 95kW×4基 / 両
駆動方式 吊掛駆動
歯車比 66:20(2.73)
定格出力 373.2kW
定格速度 62.7km
制御方式 抵抗制御
制御装置 日立製作所 電動カム軸式MMC-H-200B
制動装置 AMA元空気溜管式空気ブレーキ
備考 各スペックは井の頭線時代の1953年7月現在[4]及び1954年のデータ[5]
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登場経緯

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東京急行電鉄大東急)の一員となっていた井の頭線は、1945年5月25日の空襲永福町検車区が被災。夜間でほとんどの車両が車庫に戻っていた[6]ことと、民家から架線柱に延焼したために架線が垂れ下がり、車両を動かせなくなってしまった[7]ことから、31両の在籍車両のうち24両が焼失する[6]という壊滅的被害を受け、著しい車両不足に陥った。

東急は翌月には代田連絡線を陸軍の手で敷設[6]小田原線と接続して同線の車両や国鉄青梅線からの借入車14両[6]を投入して急場をしのぎ、本格的復旧のために井の頭線に新型の電動車を投入することとした。

ここで白羽の矢が立ったのが、戦時中にもかかわらず当時製造が進んでいた2形式であった。東横線クハ3650形と編成を組む予定の制御電動車デハ3550形[注釈 1]と、湘南線用のデハ5300形に連結して運用する予定だった制御車クハ5350形である。前者が当形式デハ1700形、後者がデハ1710形となった。

車両概説

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1946年春に汽車製造で竣功したのち、デハ3550形になる予定で元住吉検車区に入線していたものを入線させた[8]デハ1701 - 1704、汽車製造から直接入線[8]したデハ1705 - 1707の合計7両である。当初は奇数車が渋谷向き・偶数車が吉祥寺向きだった[8][9]が、1947年[10]に小田原線経堂工場にあった転車台を使用して、渋谷向きに統一されている[8]

車体

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本来組成相手となるはずであった東急クハ3650形と製造メーカーは違う[注釈 2]が、東急3000系(初代)デハ3450形や3500形で確立した車体寸法[11]と前面が3枚窓・非貫通形・中央窓の幅が狭い[注釈 3]などの特徴を引き継ぎ、片運転台化したような構造である[12]ことと、デハ3500形との顕著な違いが前面裾中央・連結器部分切り欠きがあるなどほぼ共通の設計である。

17m級車両で、側面の窓配置はd1D4D4D2・密閉式の片隅運転台[9]・乗務員室扉は左側のみで反対側は前端まで座席が延びている[注釈 4]という構造など帝都電鉄引継車のデハ1400形と共通点が多い[注釈 5]が、デハ1700形には前面にアンチクライマーがなく、車体長16,200mm[11]・最大長17,040mmはデハ1400形より短い[注釈 6]。また片隅式運転台のスペースを広くとるため、運転台直後の客室窓はやや狭くなっていた[18]

連結面側は切妻で1,100mm幅の広幅貫通路を備えていたが、広幅貫通路を持つ車輛がいないため入線当初は締め切りになっていた[8][19][13]。またドアエンジンを装備した自動扉車だった[8]

主要機器

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主制御器と主電動機も、デハ3450形以降で標準になっていた日立製作所製のMMC系主制御器・HS267系主電動機を装備している[8]。導入予定の東横線は当時架線電圧が600Vであったが、電装品は先んじて1,500Vに対応していた[注釈 7]ため、井の頭線への投入は問題なかった。ただし東横線急行用への投入を想定したため、高速性能を重視して歯数比を小さくとっていた[13]。主電動機自体の出力がさほど高くないこともあり、加速性能や牽引力は高くなく[13][注釈 8]、駅間が短いため加減速を繰り返す井の頭線とはあまり相性の良い設定ではなかった。

台車はKS-4と京王社内で称した汽車製造の標準軌用長軸車軸を備えた台車である。これは東急デハ3500形やクハ3650形と同様に、東横線に狭軌から標準軌への改軌計画があったためである[8][21]

沿革

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入線直後

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デハ1701と1702は1946年春に元住吉検車区でぎ装工事を受け、一度デハ3551と3552として試運転を実施した[12]後、菊名駅→国鉄横浜線東神奈川駅橋本駅を経由して厚木駅神中線海老名駅→小田原線で経堂工場というルートで回送[22]、経堂工場で整備後に代田連絡線経由で入線した。6月までにデハ1706までが入線して運用を開始、翌年5月にデハ1707が入線した[注釈 9]

当初は1700形同士で編成を組んでいたが、青梅線からの借入車[注釈 10]の電動車2両の調子が良くなかったため、借り入れた全4両をデハ1700形のクハとして連結するようになった[8][22][23]。青梅線からの借入車は手動ドアだったため、デハ1700形が先頭の時は運転士がドアを開けていたという[8]。同年末までにはデハ1401の復旧、更にデハ1711も入線したため、借入車は元の路線に復帰していった[22]

京王帝都分離

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1948年6月の京王分離以降も引き続き井の頭線で使用された。当初は尾灯が1灯しか取り付けられていなかった[9][24][25]が、1951年には2灯化されている。

1950年夏に下北沢駅でデハ1707がデハ1461に追突される事故[26]に遭い台枠を損傷[27]した。同社は日本車輌製造の蕨工場で復旧された[26][28]際に車体が更新[注釈 11]され、運転台の全室化と車掌台側への乗務員室扉増設が行われた他[29]、正面窓の窓枠が細くなって中央の窓幅が拡大[29][30]・尾灯の埋め込み化と他の車両よりも高い位置に変更[注釈 12][29]・屋根のカーブが他6両と異なる[29]、連結面側には回り込んでいなかったウインドウヘッダー[19]が追加[13]、連結面側の貫通路幅を1,100mmから850mm幅に縮小[31]などの違いが生じている。なお、密閉式の片隅式運転台・乗務員室扉が片側にしかないという設計は車掌には評判が悪く[32]1952年からはデハ1701 - 1706も全室運転台・両側に乗務員室扉を備えるスタイルに順次改造された。その際にもとからあった乗務員室扉の位置を前進させ、その後方の窓の左右幅を拡大している[31][33]

3連運転時代

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井の頭線は全線での3両編成運転のため、代田二丁目変電所の建設・永福町以西のホーム延長工事などを行い、1952年5月1日よりまず平行ダイヤを実施、6月からは3両化のためデハ1800形とサハ1300形を増備した。この両形式は桜木町事故の教訓から車端部の貫通路と貫通幌の設置を実施して製造された[12]。しかしデハ1800形8両は、デハ1400戦災復旧車の機器を流用したデハ1801 - 1803の3両が渋谷向き・完全新造車デハ1804 - 1808の5両が吉祥寺向きで、渋谷向き電動車が2両足りない[27]ため、デハ1706と1707がサハ1300形と連結することになり、デハ1706も貫通路幅を1,100mmから850mm幅に縮小する改造を受けた[27]。他の車両も全室運転化と同時に[34]貫通路幅を縮小して[28][16][35]貫通路が使えるようになった。

しかしこの新ダイヤ及び3両編成運転を実施すると、デハ1700形と1710形で主電動機がショートするという事態が相次いだ[21][36]。原因は出力・歯車比が小さいことによる熱容量不足であった。対策として同じ主電動機のデハ1760形と同じ歯車比63:19(3.32)に変更した[注釈 13][36]

1955年1月には全列車が3両で運行されるようになったが、運用側は主電動機にHS-267Dを採用したデハ1700形・1710形・1760形・1560形について、MTM編成を組む際は先のデハ1706・1707のようにデハ1800形の新造グループ[注釈 14]や、1953年末から投入されたデハ1900形などの大出力モーター搭載車を編成に入れた編成を組んだり[11]、もしくはこのグループのMMMの3両[注釈 15]で編成したり[37]などの対策も実施した[注釈 16][36]

4連運転時代

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更に1960年代にはいると尾灯の埋め込み化[11][12]、前照灯を白熱灯2個取り付けに変更する[39]など、他の車両と同様の改造を受けて井の頭線で運用された。

1963年8月時点の井の頭線基本編成表[40]
車番太字がデハ1700形、斜体は大出力モーター車。
 
渋谷
形式 デハ1700 デハ1710 サハ1300 デハ1900
区分 Mc Mc T Mc
車両番号 1706 1714 1304 1904
 
渋谷
形式 デハ1700 サハ1200
[注釈 17]
デハ1800
区分 Mc T Mc
車両番号 1701
1702
1703
1704
1201
1202
1203
1204
1804
1805
1806
1807
 
渋谷
形式 デハ1700 クハ1250 デハ1900
区分 Mc Tc Mc
車両番号 1705 1259
[注釈 18]
1903

1961年11月より4両編成での運転が始まると、原則3M1Tとなったことで編成出力に余裕ができ組成の自由度は増したが、4両編成が増えていき、かつ後述するデハ1710系の転用が始まると中間に組み込まれる車両も増えた。1965年10月には中間に組み込まれたデハ1707が、パンタグラフを外して走っていた[44]との記録もある。

1965年4月時点の井の頭線基本編成表[40][45][注釈 19]
車番太字がデハ1700形、斜体は大出力モーター車。
 
渋谷
形式 デハ1800
または
デハ1700
サハ1200
または
サハ1300
デハ1700 デハ1400
区分 Mc T Mc Mc
車両番号 1801
1704[39]
1803
1203
1302
1303
1702
1701
1703
1401
1402
1403
 
渋谷
形式 デハ1900 クハ1250 デハ1700 デハ1800
区分 Mc Tc Mc Mc
車両番号 1906 1251 1706 1806
 
渋谷
形式 デハ1760 サハ1200 デハ1700 デハ1800
区分 cMc T Mc Mc
車両番号 1763 1201 1707 1808
 
渋谷
形式 デハ1800 デハ1800 デハ1700 クハ1250
区分 Mc Mc Mc Tc
車両番号 1802 1807 1705 1255

京王線転用と終焉

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井の頭線では1962年から3000系の増備が始まり、一方1963年に昇圧が実施された京王線では、増え続ける乗客を裁くため輸送力増強の必要があった。長軸車軸台車を装備していた本形式及びデハ1710形は1372mmへ容易に改軌できることから、3000系を増備して本形式とデハ1710形を捻出し、京王線輸送力増強用に転属させることとなった。

1965年の1710形の転属に続いて、1700形7両とサハ1202[注釈 20]が1966年3月から桜上水工場と永福町工場で改造され、5月連休より京王線にデビューした[3]。この転属時には先述した通りが標準軌対応台車であることを活かして、台車は交換せずに京王線の1372mm軌間に改軌して[注釈 22]使用した他、パンタグラフの撤去・中間車化なども行われた。

  • 1701、1704、1706:パンタグラフを撤去した新宿向き先頭車
  • 1702:運転台を撤去して中間電動車に改造。パンタグラフあり。旧運転台部分は八王子向きで丸妻のまま。
  • 1703、1705,1707:パンタグラフのある八王子向き先頭車

更に先頭車6両は旧来の尾灯を標識灯とし、幕板部に外付けの尾灯を増設[注釈 23]、運転台周りの機器など各部が京王線仕様に合わせられた[51]

京王線では1701 - 1703と1202による4両編成1本と、1704 - 1705、1706 - 1707の2両編成2本を組み、同系列での6連や、2両編成は2600系などとも連結[52]して運用され、1969年の京王線系統ATS稼働に伴いATS機器の搭載工事も実施されている。しかしさらなる輸送力増強を目的に、京王線に都営新宿線乗入規格に沿った6000系の1次車導入に伴い、1972年5月23日を最後に運用離脱[3]、9月30日付で全車廃車された[2]

譲渡

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廃車後、デハ1707が増結用の車両を探していた近江鉄道に譲渡された。譲渡に際しては西武所沢工場で車体更新・前面貫通化・両運転台化改造を受け、台車をTR-14Aに履き替えるなど床下機器を交換し、1973年2月にモハ204として入線した[3]。1980年には郵便荷物合造車モユニ11に改造された[53]が、1984年の荷物輸送廃止に伴い休車となり、1990年に廃車されている[54]

廃車後もそのまま彦根駅構内に留置されていたが、2004年にヤードの再開発に伴い解体された。

参考文献

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書籍

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  • 鈴木洋『【RM LIBRARY 146】京王5000系の時代 ファンの目から見た33年』株式会社ネコ・パブリッシング、2011年10月1日。ISBN 978-4-7770-5316-2 
  • 佐藤良介『【RM LIBRARY 173】京急400・500形 大型吊り掛け駆動車の生涯(上)』株式会社ネコ・パブリッシング、2014年1月1日。ISBN 978-4-7770-5359-9 
  • 関田克孝『【RM LIBRARY 235】帝都電鉄(上)』株式会社ネコ・パブリッシング、2019年3月1日。ISBN 978-4-7770-5439-8 
  • 関田克孝『【RM LIBRARY 236】帝都電鉄(下)』株式会社ネコ・パブリッシング、2019年4月1日。ISBN 978-4-7770-5440-4 
  • 宮崎繁幹・山下和幸 編『京王帝都電鉄電車回顧 第1巻』多摩湖鉄道出版部、2019年4月1日。ISBN 978-4-7770-5446-6 
  • 宮下洋一 編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』株式会社ネコ・パブリッシング、2019年5月1日。ISBN 978-4-7770-2350-9 

雑誌記事

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  • 鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄 1950-60』、鉄道図書刊行会、2005年8月。 
    • p.28 - 36 京王帝都車両アルバム 1950~60
    • p.39 - 43 吉川文夫「私鉄車両めぐり(8) 京王帝都電鉄井の頭線」※『鉄道ピクトリアル』第24号(1953年7月号)より再録
    • p.60 - 105 京王帝都レールファンクラブ「私鉄車両めぐり(65) 京王帝都電鉄」※『鉄道ピクトリアル』第171号、第172号、第174号、第176号、第177号(1965年6、7、9、11、12月号)より再録
    • p.106 - 118 京王帝都レールファンクラブ「私鉄車両めぐり(72) 京王帝都電鉄 補遺」※『鉄道ピクトリアル』第197号(1967年6月号)より再録
    • p.144 - 153 読者短信に見る京王電鉄の記録 1950-1960
    • p.155 - 159 電気車形式図集 私鐵電車編(1954年)
  • 鈴木洋「他社に渡った京王の車両」『鉄道ピクトリアル』第278号、電気車研究会、1973年5月、57-58頁。 
  • 吉川文夫「井の頭線戦災記」『鉄道ピクトリアル』第278号、電気車研究会、1973年5月、59-61頁。 
  • 益崎興紀「スジをたどる=運転の変遷」『鉄道ピクトリアル』第422号、電気車研究会、1983年9月、32-40頁。 
  • 山岸庸次郎「グラフ 井の頭線 過ぎ去りし日々のおもいで<帝都線から井の頭線へ>」『鉄道ピクトリアル』第422号、電気車研究会、1983年9月、54-57頁。 
  • 山岸庸次郎「井の頭線 過ぎ去りし日々のおもいで<帝都線から井の頭線へ>」『鉄道ピクトリアル』第422号、電気車研究会、1983年9月、98-103頁。 
  • 鉄道ピクトリアル編集部「他社で活躍する京王帝都の車両」『鉄道ピクトリアル』第422号、電気車研究会、1983年9月、136頁。 
  • 合葉博治、滝川精一「井の頭線 グリーン車たちの断面(1) 27・10一斉改番の前夜」『鉄道ファン』第278巻、交友社、1984年6月、62-69頁。 
  • 合葉博治「井の頭線 グリーン車たちの源流 帝都線の電車」『鉄道ファン』第279巻、交友社、1984年7月、91-97頁。 
  • 藤田吾郎「京王帝都の廃車体あれこれ」『鉄道ピクトリアル』第578号、電気車研究会、1993年7月、82-83頁。 
  • 久保敏「戦火で離別した姉妹電車 井の頭線デハ1700とデハ1710」『鉄道ピクトリアル』第578号、電気車研究会、1993年7月、90-92頁。 
  • 藤田吾郎「京王帝都電鉄形式カタログ」『鉄道ピクトリアル』第578号、電気車研究会、1993年7月、169-192頁。 
  • 出崎宏「私鉄めぐり(149)京王帝都電鉄」『鉄道ピクトリアル』第578号、電気車研究会、1993年7月、223-242頁。 
  • 出崎宏「京王電鉄 過去の車両」『鉄道ピクトリアル』第734号、電気車研究会、2003年7月、174-186頁。 
  • 藤田吾郎「【特集】京王電鉄 京王電鉄 主要車歴表(2012年度末現在)」『鉄道ピクトリアル』第893号、電気車研究会、2014年8月、262-284頁。 

脚注

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注釈

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  1. ^ 後に登場した同名の形式とは直接関係はないが、同形式のうちデハ3553・3554は本形式の見返りに井の頭線から東横線へ転出したデハ1401デハ1366を種車としている。
  2. ^ クハ3650形は川崎車輛製。
  3. ^ 窓幅は両側が790㎜、中央が580mm[5]
  4. ^ 京王では2本の仕切り棒を通して、一応乗客の立ち入り禁止としていた[10][13]が、立ち入って前方展望を楽しむ客もいた[14]
  5. ^ ただしデハ1400形の運転台は片隅式だが開放型。
  6. ^ デハ1400形は車体長が16,690 mm[15]、最大長17.450mm[16][17]、もしくは17.530mm[4]
  7. ^ 大東急は東横線を標準軌に改軌[8]して湘南線に乗り入れさせるという計画の下、日立に大量の電装品を先行発注していた[20]。その際湘南線の旧湘南電気鉄道区間は、架線電圧が1,500Vであることを考慮した。
  8. ^ 例えば帝都電鉄引継車のデハ1400形(歯数比61ː19=3.21、主電動機の定格出力が105kW)は、デハ1700形・1710形と比較して全負荷時の最高速度は劣るが、牽引力は30%増しだった[4]
  9. ^ デハ1707の入線が遅れた理由として、関田(2019)は、入線直後に撮影された写真では車体全体に叩き痕が確認できることから、製造途上で戦災を受けて復旧したことで入線が遅れたのではと推測している[10]
  10. ^ 全4両で、電動車がモハ104モハ503の2両、制御車がクハ1003クハ2の2両[6]
  11. ^ 吉川(1953)は「更新」[27]としているが、関田(2019)は「新製車体になった」と記載している。
  12. ^ 尾灯の2灯化も行われている[30]
  13. ^ デハ1760形は歯数比を大きくすることで22%増の牽引力を発揮できた[4]
  14. ^ 主電動機にMT-30を搭載したデハ1804 - 1808は、デハ1760形に対して50%増の牽引力を持っていた[4]
  15. ^ ただし、本形式とデハ1710形は全車運転台が渋谷向きのため、吉祥寺側に運転台を持つ両運のデハ1760形・デハ1560形と必ず編成することになった。
  16. ^ 更に1961年11月15日のダイヤ改正では平行ダイヤをやめ、上下別・時間帯ごとに運転時分を変えるようになった[38]
  17. ^ クハ1200形のサハ化時期について、京王帝都レールファンクラブ(1967)は1963年[41]藤田(2014)宮下(2019)は京王の資料に従い1964年7月[1][42]としているが、1964年2月に既に1204がサハ化されている写真を掲載している前者に従い、1963年にサハ化されていたものとする。
  18. ^ 1963年8月に京王線が1,500V昇圧するのに際し、電装品をデニ201デハ220形などに流用するため、デハ1762を電装解除した渋谷向き制御車。藤田(2014)宮下(2019)はクハ化を京王の資料に従い1964年7月[1][42]としているが、電装解除の経緯や、後者作成のこの編成表と矛盾する。1963年12月22日に永福町検車区で撮影された写真[43]が存在するため、京王帝都レールファンクラブのクハ化は1963年[41]という記述に従う。
  19. ^ あくまでも基本であり、デハ1803の編成が、下記表と中間に挟まっているデハ1703とサハ1303の位置が入れ替わった状態で走行している[46]1965年5月の写真もある。
  20. ^ 帝都電鉄での新造時はクハ252。永福町車庫で被災し応急復旧、1950年に台枠を用いて車体を新造した。台車は元はD-18だが、デハ1661と交換してNSC-31に履き替えている[4][41][47]
  21. ^ デハ5070形への電装品流用のため1963年にデハ2724を電装解除した車両、1969年に再改造されサハ2511(2代)となる。
  22. ^ 一緒に転属したサハ1202はNSC-31台車を改軌せず、転属当初はクハ2771 - 2773、2776のいずれかより譲られたD-16を、更に1966年中に5000系の台車交換の玉突きでTS-306に履き替えたクハ2787[注釈 21]より譲られたTS-101A[48]に交換している。
  23. ^ 宮下(2019)は「標識灯が追加された[49]」と書いている。ただしデハ2700形以降の京王線車輛は幕板部が尾灯・下部が標識灯で、後年転用されたデハ1801 - 1803なども幕板部が尾灯・下部が標識灯に改造されている[50]

出典

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  1. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』893号(2014年8月号)藤田吾郎「京王電鉄 主要車歴表(2012年度末現在)」 p.279
  2. ^ a b c 『鉄道ピクトリアル』893号(2014年8月号)藤田吾郎「京王電鉄 主要車歴表(2012年度末現在)」 p.267
  3. ^ a b c d e 『鉄道ピクトリアル』1973年5月増大号(通巻278号)鈴木洋「他社に渡った京王の車両」p.57-58
  4. ^ a b c d e f g 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 吉川文夫「「私鉄車両めぐり(8) 京王帝都電鉄井の頭線」 p.43
  5. ^ a b c 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 「電気車形式図集 私鐵電車編(1954年)」 p.156
  6. ^ a b c d e f 『鉄道ピクトリアル』278号(1973年5月号)吉川文夫「井の頭線戦災記」 p.60
  7. ^ a b 『鉄道ファン』279号(1984年7月号)合葉博治「井の頭線 グリーン車たちの源流 帝都線の電車」 p.97
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  43. ^ a b 宮崎繁幹・山下和幸編『京王帝都電鉄電車回顧 第1巻』 p.29
  44. ^ a b 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 「読者短信に見る京王電鉄の記録」 p.151
  45. ^ a b 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 京王帝都レールファンクラブ「私鉄電車めぐり(65) 京王帝都電鉄 第2部 車両総論」 p.76
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  47. ^ a b 宮崎繁幹・山下和幸編『京王帝都電鉄電車回顧 第1巻』 p.20
  48. ^ a b 鈴木洋『【RM LIBRARY 146】京王5000系の時代 ファンの目から見た33年 p.19
  49. ^ a b 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』(2019) p.83
  50. ^ a b 宮崎繁幹・山下和幸編『京王帝都電鉄電車回顧 第1巻』 p.115
  51. ^ a b 宮崎繁幹・山下和幸編『京王帝都電鉄電車回顧 第1巻』 p.68
  52. ^ a b 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 京王帝都レールファンクラブ「私鉄車両めぐり(72) 京王帝都電鉄 補遺 p.112
  53. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』422号(1983年9月号)他社で活躍する京王帝都の車両 p.136
  54. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』578号(1993年7月号)藤田吾郎「京王帝都の廃車体あれこれ」p.83
  55. ^ 宮崎繁幹・山下和幸編『京王帝都電鉄電車回顧 第1巻』 p.62