井上敏夫 (海軍軍人)
井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年8月12日) - 1924年(大正13年)3月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。予備役後は衆議院議員を2期務めた。
略歴
編集安政4年8月12日、加賀藩士の切米3俵の中間井上栄信の次男として生まれる[1]。 1872年、海軍兵学寮に入学する。1874年の台湾出兵では高尾丸に、1877年の西南戦争では筑波に学生の身分で乗船した[2]。1878年7月、海兵を卒業する(5期)。1881年、海軍少尉に任ぜられる。
各艦で海上勤務のほか、1886年(明治19年)から1889年(明治22年)には海軍兵学校航海術教官となる。日清戦争直前の数年間、在清国公使館付武官として諜報活動に従事し、開戦とともに帰国。巡洋艦出雲の回航委員長・艦長から、日露戦争前には戦艦富士の艦長として、富士型戦艦としての関門海峡初通航を実現。また、1893年7月には家督を相続している。
日露戦争では、1904年(明治37年)12月-1905年(明治38年)1月に仮装巡洋艦香港丸艦長として、僚艦日本丸と二艦で南洋方面へ牽制行動をとる。日本海海戦時には、津軽海峡で哨戒活動に当たった。6月14日以降は特務艦隊司令官を務めた。この功により功四級金鵄勲章が授けられた。1906年(明治39年)5月28日、予備役に編入[3]。1914年(大正3年)3月1日に後備役となり[4]、1918年8月12日に退役した[5]。
1907年(明治40年)、内務省港湾調査会開催に際して、富士艦長としての体験に基づき、関門港の水路整備について発言。航海術を得意とする兵科将校としての経歴が、現役を退いた後の進路に結びついた。日本海員掖済会理事として海員宿泊所設置のため訪れた三重県で、四日市港整備を期待され、衆議院議員に推された。第10回衆議院議員総選挙と第11回衆議院議員総選挙で四日市市より選出され、1908年(明治41年)から1914年(大正3年)まで在任。当初は戊申倶楽部に属したが、立憲政友会に転じた。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
著書等
編集関連事項
編集香港丸南航(1904年12月~1905年1月)[9]
脚注
編集- ^ 人事興信録データベース 第4版
- ^ 明治十年西南征討志. 附図
- ^ 『官報』第6872号、明治39年5月29日。
- ^ 『官報』第476号、大正3年3月3日。
- ^ 『官報』第1824号、大正7年8月30日。
- ^ 『官報』第1033号「叙任」1886年12月8日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『日本海軍史』第9巻・第10巻(財団法人海軍歴史保存会編刊、1995年)所収「将官履歴」を通覧し、この航海の時点で香港丸に乗り組んでいた後に将官となった海軍軍人をピックアップした。
- ^ 『極秘明治三十七八年海戦史』。アジア歴史資料センター Ref.C05110083700(2画像目)
参考文献
編集- 『極秘明治三十七八年海戦史』(防衛研究所所蔵)第2部1巻・「戦記」第1篇「露国増遣艦隊ニ対スル作戦準備」第5章「香港丸日本丸ノ南洋巡視 附 新高ノ南清巡視」 <<アジア歴史資料センターで閲覧可能>>
- 同第2部1巻「備考文書 第五号 香港丸艦長海軍大佐井上敏夫ノ提出セル明治三十七年十二月ヨリ三十八年一月ニ至ル香港丸日本丸ノ南洋方面巡航報告」 <<アジア歴史資料センターで閲覧可能>>
- 『第二十七回衆議院重要問題名士演説集』帝国議会要史編纂所、1911年 <<近代デジタルライブラリーで閲覧可能>>
- 北国新聞1924年3月15日号人事消息「井上敏夫氏死去」
- 『対支回顧録 下』対支功労者伝記編纂会、1936年
- 『日本海員掖済会五十年史』日本海員掖済会、1929年
- 『石川百年史』石林文吉著、石川県公民館連合会、1972年
- 『日本海軍史 9 将官履歴(上)』海軍歴史保存会、1995年
- 『四日市市史 18 通史編 近代』四日市市、2000年
研究論文
- 石田龍次郎「『東京地学協会報告』(明治12-30年)---明治前半の日本地理学史資料として」社会学研究10、1969年(石田『日本における近代地理学の成立』1984年に収録)
- 安岡昭男「初期の東京地学協会と軍人」政治経済史学400、1990年
- 土田宏成「戦前期陸海軍出身議員に関する予備的考察」史学雑誌109-3、2000年
- 柴崎力栄「海軍少将から代議士に転じた井上敏夫」大阪工業大学紀要人文社会篇55-1、2010年