井上 唯一(いのうえ ただいち)は、幕末徳山藩士。禄高は49石。徳山七士の一人。幼名は彦太郎。は和彦、のちに和暢。井上栄尚(九郎左衛門)の次男で、兄は井上和靖(伊織)。

 
井上 唯一
時代 幕末
生誕 天保13年3月29日1842年5月9日
死没 元治元年10月24日1864年11月23日
改名 彦太郎(幼名) → 和彦 → 和暢(
別名 喜一郎、安祐、虎之進、
彦太郎、郡太、唯一(通称
子達(字) 雪嶽、雪崖、文翠(号)
墓所 八正寺山口県周南市
官位従四位
主君 毛利元蕃
徳山藩
氏族 井上氏
父母 父:井上栄尚(九郎左衛門)
兄弟 和靖(伊織)、唯一
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生涯

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若い頃から武芸の技を磨くとともに和歌連歌にも優れており、成長すると槍術に励み、浅見安之丞信田作太夫らにその技を学ぶ。勤皇の志が篤く、兄の跡を継ぐ。

文久2年(1862年)の四国連合艦隊下関砲撃事件の際には、長州藩主・毛利元徳に従って出陣し、また上京して徳山藩主・毛利元蕃の前衛を務める。文久3年(1863年)の七卿落ちの時にはその護衛役を務めて山口に赴き、高杉晋作の創設した奇兵隊に入隊して下関に駐屯する。久坂玄瑞に従って京摂の間を奔走し、八月十八日の政変後の上方の情勢を探った。元治元年(1864年)7月に禁門の変により帰国したが、変後の徳山藩の内訌の際に尊攘派(正義派)の一員として活躍したため、同年8月12日に保守派(俗論派)によって捕らえられ、10月24日に浜崎の獄舎で河田佳蔵と共に刑に臨み、「潜身報国帝京間、幸脱重囲帰故山、此日終然逢斬戮、勤王未変赤心殷」と高吟した後、斬首された。享年23。辞世の歌は「蜻蛉の 有るか無きかの 身をつめて 人の哀れも 知られける哉」。墓は徳山寺町の八正寺にある。

藩論回復後、徳山藩主・毛利元蕃は、殉難七士の家を復興し、その遺族を優遇した。明治21年(1888年)に靖国神社に合祀され、明治31年(1898年)には徳山七士の7名全員に従四位が贈られた。周南市児玉神社には七士の顕彰碑(初めは遠石地区に建てられた)と贈従四位の碑が建っている。

参考文献

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  • 徳山市史
  • 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 第六巻』(新人物往来社1989年