信田作太夫
信田 作太夫(しだ さくだゆう)は、江戸時代末期(幕末)の人物。周防徳山藩士。徳山七士の一人。諱は徽胤、号は秋栞。父は信田十左衛門盛諄。
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
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生誕 | 文政12年5月16日(1829年6月17日) |
死没 | 元治2年1月14日(1865年2月9日) |
改名 | 信田徽胤 |
別名 | 字:伯懿、号:秋栞 |
墓所 | 八正寺(山口県周南市) |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 毛利元蕃 |
藩 | 周防徳山藩 |
氏族 | 信田氏 |
父母 | 父:信田盛諄、母:田村義文の娘 |
兄弟 | 作太夫、惟精 |
生涯
編集文政12年(1829年)5月16日、徳山藩士・信田十左衛門盛諄の長男として生まれる。
安政元年(1854年)3月、筑後柳川藩に遊学し、加藤嘉右衛門に槍術を学び、日ならずしてその塾頭となる。後に備後福山藩に招かれて、槍術を指南する。
文久2年(1862年)、遠藤貞一郎と共に、攘夷督促の勅使・姉小路公知の護衛に加わって江戸に赴く。翌文久3年(1863年)春に京に戻って周旋方となった後、選ばれて御親兵となり堺町門を警衛したが、同年8月18日の八月十八日の政変のために帰国。
元治元年(1864年)の禁門の変後に徳山藩内で保守派が政権を握ると、同年8月11日に本城清、浅見安之丞と共に捕らえられ、浜崎の獄に繋がれる。
元治2年(1865年)1月14日、保守派に「死一等を減じ流罪に処す」と偽られて本城清や浅見安之丞と共に新宮浜[1]に連れ出され、絞殺された。享年37。3人の死は、獄中における病死として徳山藩主・毛利元蕃や萩藩に報告された。その後、長州藩において高杉晋作らによって保守派が失脚すると、徳山藩主・毛利元蕃は徳山七士の家を復興してその遺族を厚遇した。
明治21年(1888年)に徳山毛利家当主・毛利元功のたっての願いで徳山七士全員は明治天皇の命により、例外的に靖国神社に合祀された。明治31年(1898年)には徳山七士全員に従四位が贈られた。また、周南市の児玉神社には七士の顕彰碑[2]と贈従四位の碑が建っている。