二宮赤城神社
二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)は、群馬県前橋市二之宮町にある神社。式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社。旧社格は郷社。
二宮赤城神社 | |
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社殿 | |
所在地 | 群馬県前橋市二之宮町886 |
位置 | 北緯36度22分2秒 東経139度10分3.5秒 / 北緯36.36722度 東経139.167639度座標: 北緯36度22分2秒 東経139度10分3.5秒 / 北緯36.36722度 東経139.167639度 |
主祭神 |
豊城入彦命 大己貴尊 ほか数柱 |
神体 | 赤城山(神体山) |
社格等 |
式内社(名神大)論社 上野国二宮論社 旧郷社 |
創建 | 不詳 |
例祭 | 4月15日 |
地図 |
関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の、本宮と推測されるうちの一社である。
祭神
編集ほか数柱。
歴史
編集概史
編集創建は不詳で、平安時代にさかのぼると見られる。赤城南麓には豊城入彦命を祖とする上毛野氏がいたと伝わっており、当社の創建に関係したともいわれる[1]。当社が「二宮」と称したのは12世紀前後と見られる[2]。
六国史には「赤城神」に対する数度の神階奉授の記録があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載があり、その論社とされている。論社には赤城山麓に鎮座する当社のほか、山腹の三夜沢赤城神社、山頂の大洞赤城神社があり、確定していない。
戦国時代末期には北条氏直により荒廃したが、大胡城に入った牧野氏により社殿が整備されたという。
明治時代には、近代社格制度において郷社に列した。三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて国幣中社にしようとする動きもあったが、終戦により実現はしなかった。
神階
編集六国史に記載される「赤城神」に対する神階奉授の記録(比定には当社以外にも説がある)。
- 承和6年(839年)6月、従五位下 (『続日本後紀』)
- 貞観9年(867年)6月20日、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』)
- 貞観11年(869年)12月25日、正五位上 (『日本三代実録』)
- 貞観16年(874年)3月14日、従四位下 (『日本三代実録』)
- 元慶4年(880年)5月25日、従四位上 (『日本三代実録』) - 表記は「赤城石神」または「赤城沼神」[3]。
赤城信仰での位置づけ
編集「赤城神社」を称する神社は群馬県を中心として数多く存在する。それらの大元とされる『延喜式神名帳』記載の名神大社の比定を巡って三夜沢赤城神社・大洞赤城神社・二宮赤城神社の間で議論がなされてきたが、決着はついていない。
当社は赤城山麓に位置し、東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される[4]。また、数多い赤城神社のなかでも唯一「二宮」を称するのが特徴である。そのため、一宮・二宮が制定された頃は当社が中心となっていたと見られ[4]、遅くとも鎌倉時代には当社は里宮として赤城信仰の中心をなしていたと推測される[2]。
現在の赤城信仰の中心は山腹の三夜沢にあるが、三夜沢と当社との関係は深く、4月・11月の年2回両社間での神輿の渡御がある。三夜沢にある古代祭祀遺跡の「櫃石」は当社の真北に位置しており、それとの関係も指摘される。なお、三夜沢と当社との間には近戸神社数社が鎮座する。この「近戸」は「本社の社領域の入り口」を意味するとされ[5]、神輿渡御の際に休憩した地として月田・深津の近戸神社があったという[5]。
境内
編集境内には堀と土塁がめぐらされている。中世における社地の形態をよく伝える環濠遺構であり、市の史跡に指定されている[1]。
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本殿
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拝殿
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神楽殿
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宝塔(市指定重要文化財)
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塔跡の心礎
鎌倉時代の塔跡と推定される。 -
随神門
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鐘楼
梵鐘は市指定重要文化財。
祭事
編集文化財
編集群馬県指定文化財
編集前橋市指定文化財
編集重要文化財
- 梵鐘
- 絵馬
- 宝塔
- 南北朝時代とされる。同種の宝塔は赤城山麓に広く分布し、「赤城塔」とも呼ばれる。昭和58年4月25日指定。
史跡
- 二宮赤城神社社地 - 昭和59年3月12日指定。
重要無形民俗文化財
- 二宮赤城神社の御神幸 - 平成5年4月16日指定。
- 二宮赤城神社太々神楽 - 平成21年3月24日指定。
- 二之宮の式三番叟(附 伝授書) - 昭和45年2月10日指定。
現地情報
編集所在地
交通アクセス
脚注
編集参考文献
編集- 境内説明板
- 『日本歴史地名体系 群馬県の地名』(平凡社)前橋市 二之宮赤城神社項
関連項目
編集外部リンク
編集- 赤城神社(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)