久下田城(くげたじょう)は、茨城県筑西市樋口にあった日本の城。茨城県指定文化財(史跡)。

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久下田城
茨城県
久下田城址
久下田城址
別名 上館
築城主 水谷正村
築城年 1545年(天文14年)
主な城主 水谷氏
廃城年 1615年(元和元年)か?
遺構 二の丸跡、空堀、水堀、土塁
指定文化財 茨城県史跡
位置 北緯36度22分23.5秒 東経139度58分27.1秒 / 北緯36.373194度 東経139.974194度 / 36.373194; 139.974194
地図
久下田城の位置(茨城県内)
久下田城
久下田城
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概要

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天慶年間(938-948)、藤原秀郷平将門追討のために築いた三館(上館・中館・下館)[1]のうち上館にあたるという伝承がある。

結城水谷宇都宮氏の対立が深まっていた天文14年(1545年)、下館城主の水谷正村(蟠竜斎)が北方の宇都宮氏から下館領を守るため、下館城の北に築城した。

歴史・沿革

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  • 天文14年(1545年)、下館城主の水谷正村が築城。
  • 天文年間、宇都宮家臣の八木岡伊織を大将とする約200騎により攻められるも、水谷正村がこれを撃退。
  • 天文年間、宇都宮家臣の武田治郎を大将とする約3,000騎により城められるも、結城氏の援軍を受けた水谷正村が撃退。
  • 元和元年(1615年)、いわゆる一国一城令が出される(これを受け久下田城も廃城か)。
  • 寛永16年(1639年)、下館藩水谷勝隆備中国成羽藩に転封[2]

構造

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栃木県旧・二宮町(現・真岡市)に接し、東に勤行川が流れる台地上に建つ。筑西市樋口の城山一帯が城域で、往時は二宮町の台地を含み大規模な城下を構成していた。

考古資料

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遺構

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二の丸跡が公園となっており、それを囲むように2つの曲輪が残る。空堀、土塁のほか、現在は用水路となっている水堀など多くの遺構が現存している。

脚注

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  1. ^ 三館のうち、中館は後に伊佐氏により改修され伊佐城に、下館は水谷勝氏により改修され下館城になったとされる。
  2. ^ 水谷勝隆はその後備中国松山藩に転封となり、次代の水谷勝宗備中松山城(国の重要文化財)を改修。今も残る松山城天守は、この時の改修により現在の形となった。

関連項目

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