丹波重忠
丹波 重忠(たんば の しげただ、? - 天養元年2月12日(1144年3月17日))は平安時代後期の官人、医者、楽人。官位は従四位上・施薬院使・主税頭。丹波重康の第二子[1]。
時代 | 平安時代後期 |
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死没 | 天養元年2月12日(1144年3月17日) |
官位 | 従四位上・施薬院使・主税頭 |
主君 | 鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 |
氏族 | 丹波朝臣 |
父母 | 父:丹波重康 |
兄弟 | 重基、重忠、重頼、親基 |
子 | 重長、重成 |
経歴
編集元永2年(1119年)11月、輔仁親王の瘡を診ていたらしく、23日、源師時に病状を説明している[2]。
保安元年(1120年)5月25日、采女正・盛親、施薬院使・丹波重基と共に鳥羽天皇に灸をすえた[3]。その後の除目で権針博士となった。しかし典薬頭・丹波雅康が、針は本道でないので辞任したとして、重忠を侍医としてほしいと訴えたため、12月17日、侍医となった[4]。
大治4年(1129年)1月20日、摂政・藤原忠通の奏楽で召人になった[3]。同年6月から7月、白河上皇の霍乱を診た[5]。5年(1130年)2月17日、兄・重基から譲られて、施薬院使となった[3]。12月8日、内侍所御神楽で陪従を務めた[3]。同年、鳥羽上皇の熊野行幸にお供した[6]。
長承元年(1132年)8月19日、左衛門督・源雅定の小児の背に灸をすえた[3]。10月13日、鳥羽上皇の高野詣に扈従した[3]。2年(1133年)2月9日、鳥羽上皇に灸をすえた[7]。26日、これを賞して、従四位下に上った[3]。5月21日、大殿・藤原忠実の足に灸をすえた[3]。7月4日、関白・藤原忠通に灸をすえ、馬を賜った[3]。
保延元年(1135年)7月24日、鳥羽上皇のムカデ咬症の処置について進言した[8]。2年(1136年)1月26日、叡子内親王の五十日賀の奏楽の召人になった[3]。
天養元年(1144年)2月12日、急死したが、翌日、蘇生して、子の医博士・重成に施薬院使を譲って再び身罷った。蘇生は重成の嘘であろう[9][10]。
官歴
編集系譜
編集『群書系図部集』による