藤原宗忠
平安時代後期の公卿、歌人。藤原北家中御門流、松木家2代。藤原宗俊の長男。従一位・右大臣
(中御門宗忠から転送)
藤原 宗忠(ふじわら の むねただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣。中御門左大臣と号し、中御門 宗忠とも呼ばれる。
![]() 藤原宗忠 (『天子摂関御影』) | |
時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 康平5年(1062年) |
死没 | 保延7年4月20日(1141年5月27日) |
別名 | 中御門宗忠 |
官位 | 従一位、右大臣 |
主君 | 後三条天皇→白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 | 父:藤原宗俊、母:藤原実綱の娘 |
妻 | 藤原行房の娘 |
子 | 宗能、宗成、宗重、覚晴、藤原宗輔室、徳大寺実能室、源憲俊室、源顕国室 |
人物
編集日記『中右記』を残した。名称の由来は中御門右大臣の日記から。 音楽の才があり、管絃、特に笙をよくした。また催馬楽にも秀でた。音律に関する著書『韻花集』『白律韻』があったとされるが現存しない。和歌は『続古今和歌集』『玉葉和歌集』に入集。
史的立場
編集摂関政治から院政への過渡期の公卿として、その時代の動きや自身の身辺での出来事、また、重要な人物との接触や、その活動についての自身の意見や評価を日記として残し、その時代をつかむ上で重要な史料を後世に提供した重要人物である。
源義家の活動やその評価などは当時の人々の感想として貴重。特に、摂関家の内紛や院政に対する批判や批評を行い、源氏の内紛、平家の台頭に関しても貴重な史料を残している人物で、その日記、『中右記』は平安時代後期の趨勢を知る上で貴重な史料。
官歴
編集注記のないものは『公卿補任』による。
- 康平5年(1062年) 日付不詳:誕生
- 承保元年(1074年) 11月23日:従五位下[要出典]
- 承暦2年(1078年) 正月20日[要出典]:侍従
- 承暦5年(1081年) 正月12日:昇殿[要出典]
- 永保2年(1082年) 正月5日[要出典]:従五位上(殿上一)
- 永保3年(1083年) 2月1日:右近衛少将[1]
- 応徳3年(1086年) 正月5日:正五位下(労)[1]
- 応徳4年(1087年) 正月23日:兼美作介[2][1]。8月29日:左近衛少将[1]
- 寛治2年(1088年) 正月5日:従四位下(労)、止少将[1]。6月:侍従
- 寛治4年(1090年) 正月5日:従四位上[要出典]
- 寛治6年(1092年) 正月5日:正四位下[要出典]。正月:兼讃岐介
- 寛治8年(1094年) 6月13日:右中弁[3]。6月22日:率分勾当[3]
- 嘉保3年(1096年) 4月21日:修理左宮城使[3]
- 永長2年(1097年) 4月29日:兼内蔵頭[3]。6月25日:復任
- 承徳2年(1098年) 正月27日:左中弁[3]。12月17日:右大弁兼蔵人頭、頭如元[3]。12月29日:造興福寺長官、氏院別当[3]
- [康和]]元年(1099年) 12月14日:兼参議、大弁長官如元
- 康和2年(1100年) 正月28日:兼備前権守[3]。5月22日:従三位(春日行幸行事賞)
- 康和4年(1102年) 正月5日:正三位(春日行幸行事賞)[3]
- 康和6年(1104年) 正月28日:兼伊予権守(大弁労)
- 嘉承元年(1106年) 12月27日:権中納言
- 嘉承2年(1107年) 正月26日[要出典]:従二位
- 天仁2年(1109年) 9月6日:正二位(太上皇御幸摂政第賞)
- 天永4年(1113年) 3月30日:兼左兵衛督、検非違使別当
- 永久4年(1116年) 5月1日:辞別当
- 保安3年(1122年) 12月17日:権大納言
- 大治5年(1130年) 2月21日:兼中宮大夫(藤原聖子立后)
- 天承元年(1131年) 12月22日:内大臣(宣命)
- 長承3年(1134年) 7月11日:依病悩上辞表。7月27日:返給表
- 保延2年(1136年) 12月9日 :右大臣
- 保延4年(1138年) 1月5日:従一位。正月21日:勅授帯剣。2月26日:依病出家。
- 保延7年(1141年) 4月20日:薨去
系譜
編集脚注
編集参考文献
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