中川観秀
日本の政治家
中川 観秀(なかがわ かんしゅう、1876年11月15日[1] - 1938年12月18日[2])は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。
経歴
編集長崎県出身[2]。1902年、東京哲学館(現・東洋大学)哲学科卒。長崎市議、同参事会員、同副議長、長崎県議、同参事会員を歴任する[2]。佐世保軍港新聞記者、長崎新聞記者、同主筆、同社長、長崎高等女学校保護者会理事、瓊浦中学校保護者会長、長崎市教育会理事となる[2]。
1930年の第17回衆議院議員総選挙において長崎1区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが次点で落選した[3]。1932年の第18回衆議院議員総選挙で当選[4]。その後、国民同盟に移り、1936年の第19回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1938年死去。
脚注
編集参考文献
編集- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。