中国民航機韓国着陸事件

中国民航機韓国着陸事件(ちゅうごくみんこうきかんこくちゃくりくじけん)は、1983年に発生したハイジャック事件である。

中国民航 B-296
同型機のトライデント
出来事の概要
日付 1983年5月5日
概要 ハイジャック
現場 大韓民国の旗 韓国春川市
乗客数 105
乗員数 9
死者数 0
生存者数 114
機種 ホーカー・シドレー トライデント2E
運用者 中華人民共和国の旗 中国民航
機体記号 B-296
出発地 中華人民共和国の旗瀋陽東塔空港
目的地 中華人民共和国の旗上海虹橋国際空港
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台湾では犯行グループが国内で後述の事件を起こすまで「六義士」とされていた。この事件を契機として、中韓関係改善が進んだ。

事件の概略

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1983年5月5日中華人民共和国遼寧省瀋陽にある瀋陽東塔空港から上海市上海虹橋国際空港に向かう中国民航所属の旅客機トライデントTr-2Eイギリスジェット旅客機機体記号:B-296)が、離陸直後に6名の武装グループにハイジャックされた。ハイジャック時に操縦乗員5人のうち通信士と航法士が銃撃され負傷した。

機体は遼東半島上空から朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)上空を侵犯し、朝鮮半島の軍事境界線を通過し大韓民国の領空を侵犯した。ここで在韓米軍機がスクランブル発進してきたが、中国民航機は機体を左右に振らして恭順の態度を示した。その後戦闘機の誘導で江原道春川市にある在韓アメリカ軍基地に緊急着陸した。犯人は遼寧省の公務員であった卓長仁と姜洪軍ら男性5人と、その恋人1人の6人であった。彼らは乗員9名(運行乗務員5名と客室乗務員4名)と乗客90名(うち日本人3名)を解放した後、中華民国への亡命を求め投降した。中国の旅客機がハイジャックされ国外に出た初めての事件であった。

事件処理交渉

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ハイジャック防止条約では、機体と乗客は速やかに返還し、ハイジャック犯人は当事国のいずれかが刑事裁判で裁くとしていた。しかし中国と韓国はハイジャック防止条約に締結していたが、国交がなかった。そのうえ、双方とも互いを国家として承認していなかった。これは中国は朝鮮半島唯一の合法政府として北朝鮮を、韓国は中国唯一の合法政府として中華民国台湾)を承認していた為であった。

中国から早速特別機でソウル金浦空港に事後処理のため中国民用航空総局局長を団長とする交渉団が派遣された。この場で初の直接交渉を行っている。交渉では、それまで「中共」「南朝鮮」と呼び合っていたが、この交渉で初めて「中華人民共和国」「大韓民国」と呼ぶようになった。これは韓国側が1986年アジア競技大会1988年ソウルオリンピックを成功させるため、是が非でも中国の参加を取り付けたいとの思惑もあった。

なお、ハイジャックされた機体であるが、着陸した滑走路から燃料を積んだ上での中国への飛行は不可能であった為、韓国人パイロットの手で金浦空港へ回送された。また乗客はこの間、バス観光旅行に招待されるなどの接待を受けた。ハイジャック機は5月19日に帰国したが、乗務員は的確な判断で凶悪なハイジャック犯と対応したとして表彰された。

犯行グループのその後

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中国側から犯行グループの引渡し要求が出されたが、韓国側は刑事被告人として裁いた。ソウル地方裁判所は翌年、懲役2年から6年の実刑判決を言い渡したが、これに対しては中国側から刑が軽すぎるとの批判を受けた。そのうえ1984年8月13日に韓国は中華民国(台湾)への亡命を認めた。この対応に対して、中国側からは特に抗議はなかったが、これは事件を契機として中韓の経済的交流が活性化したうえ、華韓(台韓)関係の悪化する兆しとなったことから、その計算があったといえる。

犯人グループは反共義士として台湾で歓迎され、台北市中国大陸災胞救済総会主催の歓迎式に招かれた。また政府から171万台湾元を受け取って新生活をスタートした。

しかし卓長仁と姜洪軍は投資に失敗し多額の債務を負った。そのため一攫千金を狙い1991年8月16日に台北市国泰医院の副院長の子供を誘拐し殺害、身代金を要求したとして逮捕起訴された。2000年9月22日に卓長仁と姜洪軍は死刑が確定した。その後台湾では異例なまでの執行モラトリアムが繰り返されたが、2001年8月10日22時に死刑が執行された。卓長仁は53歳,姜洪軍は41歳であった。他の者も経営者になったもの、低所得者層にあえいでいるもの、と数奇な運命をたどっている。

参考文献

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  • 朝日新聞 1983年5月縮刷版

外部リンク

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