上杉持房
室町時代中期の武将。足利将軍家の家臣。
上杉 持房(うえすぎ もちふさ)は、室町時代中期の武将。足利将軍家の家臣。
時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 延徳2年2月10日(1490年3月1日)? |
別名 | 持憲、通称:三郎 |
戒名 | 常衍大成 |
官位 | 中務少輔 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義持→義教 |
氏族 | 犬懸上杉家→四条上杉家 |
父母 | 父:上杉禅秀、養父:上杉氏朝 |
兄弟 | 憲方、憲秋、憲春、持房、快尊、禅欽蔵主、教朝、岩松満純正室、那須資之室、千葉兼胤室 |
子 | 教房、憲秀 |
略歴
編集上杉禅秀の乱を起こしたことで有名な関東管領・上杉氏憲(禅秀)の子として誕生。幼少の頃に京都における犬懸上杉家の分家・四条上杉家の当主を務める叔父・上杉氏朝の養子となっていたため、父が4代鎌倉公方・足利持氏の排斥に失敗し自刃した後も難を逃れ、命を長らえた。
その後は室町幕府4代将軍・足利義持に仕えてその偏諱を受け持房(または持憲(もちのり))と名乗る。義持死後も6代将軍となった義持の弟・足利義教に仕え、共に仕えた弟・教朝や子・教房が偏諱を受けている。義教には特に重用されたようであり、永享10年(1438年)の永享の乱とそれに続く同12年(1440年)の結城合戦では、弟の教朝や斯波氏、土岐氏と共に幕府軍を率いて参加し、関東管領・上杉憲実や管領代行の上杉清方を支援した。
享徳3年(1455年)から享徳の乱が勃発すると、子の教房が上杉方として参戦したが、長禄3年(1459年)の太田庄の戦いにおいて持氏の子の古河公方・足利成氏の軍に敗北し戦死している。
持房本人は長命で、一説に延徳2年(1490年)2月10日に没したとされているがはっきりとしない。