上杉吉憲

江戸時代中期の大名

上杉 吉憲(うえすぎ よしのり)は、江戸時代中期の大名出羽国米沢藩5代藩主。山内上杉家21代当主。

 
上杉吉憲
上杉吉憲像(上杉家歴代藩主像より、上杉博物館蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 貞享元年11月8日1684年12月14日
死没 享保7年5月1日1722年6月14日
改名 勝千代(幼名)→吉憲
別名 通称:喜平次
戒名 樹徳院殿法印権大僧都泰心
官位 従四位下侍従民部大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
出羽米沢藩藩主
氏族 上杉氏
父母 父:上杉綱憲、母:茨木氏(清寿院)
養母:徳川光貞娘・栄姫
兄弟 吉憲吉良義周、上杉憲孝[1]勝周勝延
豊姫黒田長貞正室)
養兄弟[2]鶴姫(島津綱貴継室)
阿久理(津軽政兕室)
酒井忠平室(後大炊御門経音室)
正室:黒田綱政
継室として婚約:鍋島吉茂養女[3]
側室:山中氏(祥寿院)、山本氏
宗憲宗房畠山義紀重定
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経歴

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貞享元年(1684年)、4代藩主・上杉綱憲の庶長子として誕生した。庶子ではあったが、父と正室の栄姫との間に嫡子がなかったので、栄姫を養母として正式に世子となり、喜平次と改名した。元禄11年(1698年)11月28日、元服し、従四位下・民部大輔に叙任。5代将軍徳川綱吉偏諱を受け吉憲を名乗った。元禄16年(1703年)8月21日、父の隠居により家督を継いだ。同日、侍従兼任。

宝永元年9月(1704年9月)、家督相続早々に江戸幕府より江戸城半蔵門清水門の石垣普請を命じられた。宝永2年(1705年)に米沢に初入部した。またこの年に片山元僑を藩に招く。享保4年(1719年)には弟の勝周に1万石を分与して支藩である米沢新田藩を立藩させた。先述の普請手伝いなどもあって藩財政の窮乏が進み、参勤交代の費用にすら事欠く有様で、享保5年(1720年)の参勤交代の際には藩士の俸禄100石中の300文、人別銭100文を徴収して江戸への路費に充てた。また藩士も各々窮乏し、正徳年間には既に中級武士の馬廻組の中ですら、家財を売って、また細工物をして生計を立てるなどの者も多くなった。

享保7年(1722年)、死去した。享年39。墓所は米沢市。跡を長男の宗憲が継いだ。

系譜

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脚注

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  1. ^ 早世
  2. ^ いずれも吉良義央の娘。
  3. ^ 婚約中に死去。

演じた俳優

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外部リンク

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