三浦安次
三浦 安次(みうら やすつぐ)は、江戸時代前期の大名。下野壬生藩の第2代藩主。美作勝山藩三浦家2代。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永10年9月3日(1633年10月5日) |
死没 | 天和2年9月6日(1682年10月6日) |
改名 | 亀千代、甚太郎(幼名)→安次 |
戒名 | 法源院殿照誉常和円徹大居士 |
墓所 | 東京都府中市紅葉丘の誓願寺 |
官位 | 従五位下、志摩守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 下野壬生藩主 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 | 父:三浦正次、母:堀直之の娘 |
兄弟 | 安次、共次 |
妻 | 正室:朽木稙綱の娘 |
子 |
明敬、春次、長女(前田利広正室)、 次女(戸村忠春室)、三女(土井利良正室) |
生涯
編集寛永10年(1633年)9月3日、初代藩主三浦正次の長男として生まれる。寛永18年(1641年)7月1日、第3代将軍徳川家光に拝謁し、同年に父が死去したために跡を継いだ。このとき、弟の共次に5000石を分与したため、2万石となる。慶安元年(1648年)叙任する。天和2年(1682年)9月6日に死去し、跡を長男の明敬が継いだ。享年50。