三殿台遺跡
三殿台遺跡(さんとのだいいせき)は、神奈川県横浜市磯子区岡村にある縄文時代から古墳時代にかけての集落からなる大規模な複合遺跡である。国の史跡。250棟以上の竪穴建物跡が見つかり、その大部分が弥生時代のものである。遺跡は現地保存されており、敷地内に復元建物や遺構の保護施設がある。また展示施設横浜市三殿台考古館があり、出土した遺物などが展示されている。
概要
編集標高約55メートルの小高い台地上の住宅街の一角にある。遺跡範囲は広さ約10000平方メートルが保存されているが、既に消滅した部分を含めると本来は40000平方メートルの規模だったと推定されている[1]。
この周辺の丘の斜面に貝塚が点在していたことから、1899年(明治32年)に遺物を採集し、鳥居龍蔵と共に調査をした地元の医師、藤田清玐(せいはち)が「屏風ヶ浦岡村貝塚」として『東京人類學會雑誌』で紹介した[2]。その後小規模な発掘調査が何度か行われた。
1961年(昭和36年)、遺跡の乗る台地が隣接する横浜市立滝頭小学校岡村分校(現・横浜市立岡村小学校)の校地拡張予定地となったことで、和島誠一を主任として大規模な発掘調査が行われ、約10000平方メートルの遺跡残存部全域が発掘され、縄文・弥生・古墳の3時代に亘る集落跡が確認された[3][4]。1966年(昭和41年)に国の史跡に指定され、翌1967年(昭和42年)、三殿台考古館が開館し遺跡とともに公開された[5]。建物跡は252棟が確認され、うち8棟が縄文時代、43棟が古墳時代、残余の大部分が弥生時代のものである[注 1]。
施設
編集所在地・交通
編集神奈川県横浜市磯子区岡村4-11-22
イベント
編集考古館における展示のほか、勾玉作りや弓射ち体験、土器作り体験などのイベントを年間を通して開催している。またオリジナルグッズ販売も行っている[6](横浜市埋蔵文化財センターでは通信販売[7])。
その他
編集横浜出身の音楽ユニットゆずの5thアルバム『すみれ』(2003年)付属ブックレットの写真に、本遺跡内で撮影されたものがあり[8]、ゆずファンも訪れるスポットとなっている[9]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 三殿台考古館サイトでは「170軒近く」を弥生時代のものとしているが、この数字は資料によって差があり、『国史大辞典』6巻(吉川弘文館 1985年)は「縄文時代8軒、弥生時代200軒、古墳時代43軒」とし、『図説 日本の史跡』1(同朋舎出版、1991年)は「縄文時代8軒、弥生時代151軒、古墳時代43軒、不詳約50軒」とする。
出典
編集- ^ 小倉 2006年 p.4
- ^ 藤田 1899年
- ^ 和島ほか 1965年
- ^ 高橋 2011年 p.4
- ^ 遺跡紹介(公式サイト)
- ^ a b 橋口 2014 pp.12-17
- ^ 横浜市三殿台考古館オリジナルグッズ等の通信販売について(横浜市埋蔵文化財センター)
- ^ 公式HPトップページより
- ^ デビュー祝20周年・ゆずの素めぐり(磯子区岡村 三殿台遺跡)タウンニュース(金沢区・磯子区版)2017年5月25日閲覧。
参考文献
編集- 藤田清玐 1899年「武蔵國久良木郡屏風ヶ浦岡村貝塚發見報告」『東京人類學會雑誌』第40巻第158号
- 和島誠一ほか 1965年『三殿台(横浜市磯子区三殿台遺跡集落址調査報告)』横浜市教育委員会 NAID BN08957926
- 吉川弘文館 1985年11月『国史大辞典 6巻』NAID BN00117433
- 同朋舎出版 1991年『図説 日本の史跡 1』NAID BN06325648
- 小倉淳一 2003年10月「研究余話 三殿台遺跡の発掘と集落遺跡研究」『横浜市歴史博物館ニュース17号』pp.4-5 横浜市歴史博物館
- 高橋 健 2011年3月「特別展「大昔のムラを掘る―三殿台遺跡発掘50年」によせて」『横浜市歴史博物館ニュース30号』p.4 横浜市歴史博物館
- 橋口 豊 2014年(平成26年)3月16日「横浜市三殿台考古館における遺跡の保存と活用(三殿台遺跡について)」『平成25年度神奈川県考古学会講座・時空の交差点(遺跡の保存と活用)』pp.9-18 神奈川県考古学会NAID BB1604242X