三条実教
戦国時代の公家
三条 実教(さんじょう さねのり)は、戦国時代の公家。内大臣・正親町三条公兄の子。官位は従四位上・左近衛中将。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 天文7年(1538年) |
死没 | 天文23年(1554年) |
官位 | 従四位上、左近衛中将 |
主君 | 後奈良天皇 |
氏族 | 正親町三条家→三条家 |
父母 |
父:正親町三条公兄 母:加賀介藤原某の娘 養父:三条公頼 |
兄弟 |
正親町三条実兄、正親町三条実福、実教、松陰居士、三条西実枝室 養兄弟:細川晴元正室、三条の方、 如春尼 |
経歴
編集三条家分家の正親町三条家当主、正親町三条公兄の子として誕生した。母は加賀介藤原某(富樫氏と言われる)の娘。
天文20年(1551年)、先代の当主・三条公頼が庇護を受けていた大内義隆と共に殺された後(大寧寺の変)、実子のなかった公頼の養子という形をとって13歳で跡を継いだ。官位は従四位上・左近衛中将に至ったが、16歳で早世した。
実教の死後、三条家はいったん断絶し、永禄12年(1569年)に至って正親町三条家の分家三条西家の当主・実枝の子である実綱が再興した。
三条家の当主は、実行→公教→実房→公房→…と「公」と「実」の通字を1代ごとに交互に付けていく慣行であり、実教の次の当主が実綱を名乗ったことは、実教が三条家の歴代当主から抹殺されたことを意味する。なぜそのような措置がとられたのか、理由は不明である。
なお、江戸時代に入って、花園家を創始した花園公久と、小倉家を再興した小倉公根は、表向きは公兄の孫・実教の子ということになっているが、いずれも実教の死後20年以上も過ぎた天正年間の誕生であって、実際には実教の子ではない。公久・公根兄弟の実の父親は、正親町三条家の血縁者と推測されるが、何者なのかまったくわかっていない。