三尾 (和歌山県美浜町)
三尾(みお)は、和歌山県日高郡美浜町の大字。郵便番号は644-0045。本項ではかつて同区域に存在した日高郡三尾村(みおむら)についても記す。
三尾 | |
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国 | 日本 |
都道府県 | 和歌山県 |
市町村 | 美浜町 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
644-0045 |
19世紀末から20世紀前半にかけて多くの移民を輩出したことから「アメリカ村」として知られる。
地理
編集美浜町の西部にあたる。東で和田、北で日高町産湯、北・西で同町阿尾に接する。南で紀伊水道に面し、南西端に日ノ御埼がある。東西を海岸沿いに和歌山県道24号御坊由良線が横断し、和歌山県道187号日の岬公園線が日ノ御埼方面に分岐する。
海洋
編集歴史
編集みおむら 三尾村 | |
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廃止日 | 1954年10月1日 |
廃止理由 |
新設合併 松原村、和田村、三尾村 → 美浜町 |
現在の自治体 | 美浜町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 和歌山県 |
郡 | 日高郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,653人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 和田村、比井崎村 |
三尾村役場 | |
所在地 | 和歌山県日高郡三尾村(大字なし) |
座標 | 北緯33度53分26.7秒 東経135度5分1.1秒 / 北緯33.890750度 東経135.083639度 |
ウィキプロジェクト |
- 南北朝時代 - ミヲの地名が見られる。
- 幕末 - 日高郡三尾浦が存在。「旧高旧領取調帳」の記載によると和歌山藩領。
- 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により和歌山県の管轄となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、近世以来の三尾浦が単独で自治体を形成して三尾村が発足。
- 1935年(昭和10年)の国勢調査によると人口1482人、世帯数415。昭和9年度の村の生産額は農産が26000円、水産が24400円である[1]。
- 1945年(昭和20年)3月13日,14日 B29が三尾上空に展開。焼夷弾攻撃を受けた。龍王神社と法然寺、三尾小学校を結ぶ線100mの幅に焼夷弾が投下された。家屋21戸、松立木が消失、大人5名(男1、女4)小1男子1人の6人が犠牲になった[2]。
- 1954年(昭和29年)10月1日 - 三尾村が松原村・和田村と合併して美浜町が発足。同町の大字三尾となる。
- 2020年4月現在、三尾地区の人口は565名、その内65歳以上の高齢者は328人[3]。
三尾にある歴史的伝承に基づく地名
編集- 逢母(おいぼ)
神功皇后の新羅征伐後、帰路の途中の筑紫で誉田別尊を出産した。自身の立場が危うくなることを恐れた忍熊王らの反乱が都で発生したため、神功皇后は忠臣であった武内宿禰に誉田別尊を託し、紀州に向かわせ、自身は都へ向かった。しかし、忍熊王の勢力は強かったため、武内の故郷である紀伊にくだり、そこで軍備を固めることとなった。武内宿禰に連れられた誉田別尊一行は、大引(現在の日高町大引)から三尾にお出でになった。皇后も三尾にお出でになり、今の逢母の磯で御母宮ご皇子が再開を果たしたと言われていることから「母に逢う」と書き、逢母という地名になったとされている。[1]
- 三穂の石室(久米の岩屋)
三尾の裏磯(地域の人は「うしろそ」と呼ぶ)にある大きな洞窟。万葉集に
はたすすき 久米(くめ)の若子(わくご)が いましける 三穂(みほ)の石室(いわや)は 見れどあかぬかも (博通法師 3巻307) 常盤(ときわ)なす 石室(いわや)は今も ありけれど 住みける人ぞ 常なかりける (同上 3巻308) |
交通
編集バス
編集三尾が位置する日ノ御埼は、かつて南海バスが買い取り、「日ノ岬パーク」なる小遊園地を形成していた。その名残で路線名が日の岬パークとなっている。「日ノ岬パーク」はかつては年間の入場者数70万人を超えた関西の人気スポットの一つだった[5]。
道路
編集施設
編集- 三尾郵便局
- 美浜第2若もの広場
飲食店
編集- メリケンハウス(喫茶店)
- Guest house & bar ダイヤモンドヘッド
- 白鳥商店
NPO法人日ノ岬アメリカ村が管理する施設
編集- カナダミュージアム(カフェ併設の小型博物館)
- アメリカ村食堂すてぶすとん
- ゲストハウス遊心庵
その他
編集- 煙樹海岸県立自然公園
- 紀伊日ノ御埼灯台
- 美浜三尾テレビ中継局
脚注
編集参考文献
編集- 角川日本地名大辞典 30 和歌山県
- 旧高旧領取調帳データベース
- アメリカ村の看板婆さん. 日高新報社. (昭和62年11月20日 1987)