丈部竜麻呂
記録
編集その名前は『万葉集』に収録された以下の和歌によってのみ伝わっている。
訳:天平元年、摂津国の班田の書記の丈部竜麻呂が自ら首をくくって死んだ時に、判官大伴宿禰三中が作った歌一首と短歌
天雲の 向伏(むかふ)す国の 武士(もののふ)と 言はるる人は 天皇(すめろき)の 神の御門に 外(と)の重(へ)に 立ち候(さもら)ひ 内の重に 仕へ奉りて 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(おや)の名も 継ぎゆくものと 母父(おもちち)に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命は 斎瓮(いはひへ)を 前(まへ)にすゑ置きて 片手には 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和(にぎ)たへ奉(まつ)り 平(たひら)けく ま幸(さき)くませと 天地の 神を乞ひのみ いかにあらむ 年月日(としつきひ)にか つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさい来むと 立ちて居(ゐ)て 待ちけむ人は 大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み おしてる 難波(なには)の国に あらたまの 年経(ふ)るまでに 白たへの 衣(ころも)も干さず 朝夕(あさよひ)に ありつる君は いかさまに 思ひいませか うつせみの 惜(を)しきこの世を 露霜の 置きて去(い)にけむ 時にあらずして[1]
訳:「天雲の 垂れ伏す(遠い)国の ますらおと 言われる者は、天皇の 宮殿で 外のまわりに 立って警備し 禁中に おそばに仕え申し (玉葛) ますます末長く 父祖の名も 継ぎゆくべきものなのだ」と、父母や 妻や子供らに 説き聞かせて、出発した日からずっと (たらちねの) その母君は 斎瓮(いわいべ=神事に用いる土器)を わが前に据え置き 片手には 木綿(ゆう)を持ち 片手には にぎたえ(柔らかい細布)を捧げ持って つつがなく 元気であれと 天地の 神に祈って 何年の何月何日かに (つつじ花) 明るい顔で (にほ鳥の) 波を越えて帰って来るかと 立ったりすわったりしながら (母の)待っていたであろう、その当人は 天皇の 仰せに従い (おしてる) 難波の国に (あらたまの) 年が代わるまでも (白たへの) 衣も洗わず 朝夕 忙しく暮らしていた、その当人は どのように 思われてか (うつせみの) 惜しいこの世を (露霜の) あとに残して去っていったのであろう まだ(死ぬべき)時ではないのに
反歌
昨日こそ 君はありしか 思はぬに 浜松の上に 雲にたなびく[2]
訳:昨日は 君はこの世にあったのに 思いがけなくも 浜松の上に 雲となって棚引いている
いつしかと 待つらむ妹(いも)に 玉梓(たまづさ)の 言(こと)だに告げず 去(い)にし君かも[3]
訳:早く帰ってほしいと 待っている妻に (玉梓の)言伝てもせず 死んでしまった君だ
考証
編集この竜麻呂は、摂津国班田使になる前は、本文中に「武士」とあり、衛士などの内裏の警固にあたる兵士であったことが分かる。実家に母親が居り、妻子もいた。
また、「難波の国に あらたまの 年経るまでに 白たへの 衣干さず 朝夕に ありつる君は」ともあるので、難波宮で勤務していた可能性もある。
彼の自殺した要因であるが、