一色義秀
一色 義秀(いっしき よしひで)は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての守護大名。
時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
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生誕 | 文明2年(1470年)頃[1] |
死没 | 明応7年5月29日(1498年6月18日) |
改名 | 周儀侍者→義秀 |
別名 | 通称:五郎 |
戒名 | 西禅寺殿 |
幕府 | 室町幕府丹後守護、伊勢半国守護 |
主君 | 足利義尚 |
氏族 | 一色氏(丹後一色家) |
父母 | 父:一色義直 |
兄弟 | 義春、義秀 |
子 | 養子:義有(実子説あり[1]) |
生涯
編集一色義直の次男として誕生。初め僧籍にあったらしく「周儀侍者」と呼ばれていたが(大徳寺の『蔭凉軒日録』)、文明16年(1484年)の兄・義春の急死により急遽一色氏の家督を継ぐ。若年であったせいか、この時は丹後国守護には父義直が就いている。
文明18年(1486年)8月、父は禁裏の意向により知行地の若狭国小浜を取り上げられ、同地は同国守護武田国信に与えられた。激怒した父は直ちに丹後へ下向、翌長享元年(1487年)の9代将軍足利義尚の六角高頼討伐にも参陣しなかった。この時代理として9月25日に上洛・参陣したのが義秀で、上洛を機に「義秀」と名乗ったらしい。同年、丹後守護となる。また、時期は不明だが伊勢半国守護にも補任されている[2]。
明応元年(1492年)から同2年(1493年)にかけて、在京していた義秀と子の五郎(五郎は文明15年(1483年)前後に生まれていたため、実際は後述の伊賀次郎左衛門)は対立し、父・義秀は丹後国へと下向している[1]。明応2年(1493年)、丹後で伊賀次郎左衛門が一色五郎を奉じて叛乱を起こした。その後も丹後では国衆の叛乱が相次ぎ、遂に一色五郎は延永氏によって殺害され、明応7年(1498年)5月29日、義秀は丹後国普甲山(現在の宮津市普甲峠)で国衆に攻められ自害して果てた[1][3]。跡を継いだ義有は、義直の近親者、あるいは義秀の実子とされる[1]。