ヴィシェスラヴァ・ヤロスラヴナ
ヴィシェスラヴァ・ヤロスラヴナ(ロシア語: Вышеслава Ярославна、ポーランド語: Wyszesława Halicka(ハールィチのヴィシェスラヴァ)、1158年頃 - ? )は12世紀後半のルーシの公女である。ガーリチ公ヤロスラフとその妻オリガとの間の娘であるとする説と[1][2]、ヤロスラフ・オリガの息子のウラジーミルの娘とする説がある[3][4]。
ヴィシェスラヴァ・ヤロスラヴナ Вышеслава Ярославна | |
---|---|
出生 |
1158年頃 |
配偶者 | ポズナン公オドン |
子女 |
ヴワディスワフ オドン リクサ |
家名 | リューリク家 |
父親 | ガーリチ公ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ/ウラジーミル・ヤロスラヴィチ |
1187年[1][4]、ポーランド大公ミェシュコ3世の長男・オドンと結婚した。オドンとの間には、後にヴィエルコポルスカ公となるヴワディスワフらが生まれた。1194年にオドンが死亡した後、ヴィエルコポルスカ公領の都市・プシェメント(Przemęt)[注 1]を受領した。以降の消息は不明である。
子女
編集- ヴワディスワフ - ヴィエルコポルスカ公
- オドン - マクデブルク司教
- リクサ(pl)
また、いくつかの史料において、グダニスク公シフィエントペウク2世の妻となった女性・エウフロジナ(Eufrozyna)も娘と記されているが、現在の系譜学ではそれは否定されている。
脚注
編集注釈
- ^ 「Przemęt」はポーランド語表記。現ポーランド・ヴィエルコポルスカ県の同名のグミナ(gmina / 基礎自治体)の付近。en:Gmina Przemęt。
出典
- ^ a b Wyrozumski J. L., Dzieje Polski piastowskiej: (VIII wiek — 1370). / Komitet red. Stanisław Grodziski. — Kraków: Fogra, 1999. — S. 153. — (Wielka historia Polski, 2).
- ^ Balzer O., Genealogia Piastów. — wyd. II. — Kraków: Wydawnictwo Avalon, 2005, — S. 341.
- ^ Łaguna S., Rodowód Piastów. // Kwartalnik Historyczny, t. 11. — 1897. — S. 762—763
- ^ a b Dworzaczek W., Genealogia. — Warszawa: Państwowe Wydawn. Naukowe, 1959. — tabl. 31. — (Nauki pomocnicze historii)