ミェシュコ3世
ミェシュコ3世スタルィ(Mieszko III Stary, 1121年? - 1202年3月13日)は、ポーランド大公(在位:1173年 - 1177年、1191年 - 1194年、1198年 - 1199年、1202年)。ボレスワフ3世と2度目の王妃サロメ・フォン・ベルク=シェルリンゲンの4男として生まれた。ヴワディスワフ2世の異母弟、ボレスワフ4世の同母弟、ヘンリク、カジミェシュ2世の同母兄。
ミェシュコ3世 Mieszko III Stary | |
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ポーランド大公 | |
ミェシュコ3世老公 | |
在位 | 1173年 - 1177年、1191年 - 1194年、1198年 - 1199年、1202年 |
出生 |
1121年頃 |
死去 |
1202年3月13日 |
配偶者 | エルジェーベト |
エウドクシア | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ヴィエルコポルスカ・ピャスト家 |
父親 | ボレスワフ3世クシヴォウスティ |
母親 | サロメ・フォン・ベルク=シェルリンゲン |
長命であったことから老公(the Old)と呼ばれた。ヴィエルコポルスカ・ピャスト家の祖。
生涯
編集父が国を5分割して息子達に相続させ、クラクフ領を年長の者が治めポーランド大公となると遺言状に定めたことから、ポーランドは分裂の時代にあった。ミェシュコはヴィエルコポルスカ公であった(この地方は彼の子孫によって継承されていく)。
1173年、同母兄ボレスワフ4世の死後ポーランド大公となるが、弟のカジミェシュ2世によってその座を追われ、ヴィエルコポルスカ公位も長男オドンに奪われた。しかし、復位の野望を捨てず、1202年に亡くなるまで4度もクラクフへ舞い戻り、大公位の奪回、廃位を繰り返した。1202年に甥のレシェク1世(カジミェシュ2世の子)から大公位を奪い、4度目の大公になった直後に81歳で死去。末子のヴワディスワフ3世が大公位を継いだ。
オドンはミェシュコ3世に先立って亡くなっていたため、孫のヴワディスワフ・オドニツがヴィエルコポルスカを継いだが、幼少のためヴワディスワフ3世が後見人となった。
子女
編集1140年頃、ハンガリー王ベーラ2世の娘エルジェーベトと結婚。
- オドン(1141年? - 1194年)- ヴィエルコポルスカ公
- ステファン(1150年 - 1177年?)
- ヴィエシュホスワヴァ・ルドミワ(1152年 - 1223年) - ロレーヌ公フェリー1世妃
- ユディト(1154年 - 1201年) - ザクセン公ベルンハルト3世妃
- エルジュビェタ(1154年 - 1209年) - ボヘミア公ソビェスラフ2世妃、のちラウジッツ辺境伯コンラート2世(ヴェッティン家)妃
1154年頃、キエフ大公女エウドクシア(イジャスラフ2世の娘)と結婚。
- ボレスワフ(1159年 - 1195年)
- ミェシュコ(1160年/1165年 - 1193年)
- サロメイ(1162年? - 1183年)
- アナスタジヤ(1164年 - 1240年) - 1177年にポメラニア公ボグスワフ1世と結婚
- ヴワディスワフ3世(1165年? - 1231年)
- ズウィニスワワ - ムシチュイ1世と結婚
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