ルートヴィヒ2世 (東フランク王)
ルートヴィヒ2世(Ludwig II.、804年 - 876年8月28日)はカロリング朝初代東フランク王(在位:843年 - 876年)。ルートヴィヒ1世(敬虔王)の子。母はその最初の妃エルマンガルド・ド・エスベイ。ドイツ人王(der Deutsche)と称されている。
ルートヴィヒ2世 Ludwig II. | |
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東フランク国王 | |
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在位 | 843年 - 876年 |
出生 |
804年 フランク王国 |
死去 |
876年8月28日 東フランク王国、フランクフルト |
埋葬 | 東フランク王国、ロルシュ修道院 |
配偶者 | ヘンマ・フォン・アルトドルフ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | カロリング家 |
王朝 | カロリング朝 |
父親 | ルートヴィヒ1世 |
母親 | エルマンガルド・ド・エスベイ |
宗教 | カトリック教会 |
生涯
編集817年の「帝国整序令」において、ルートヴィヒはバイエルンの支配権を得た。父・敬虔王の死後、弟のシャルル2世(禿頭王)と手を結び、王国のすべての領土を手中に収めようとした兄ロタール1世に対抗、841年のフォントノワの戦い、842年のストラスブールの誓いを経て、843年のヴェルダン条約でライン川やアーレ川以東の地を獲得し、東フランク王国を築き上げた。これが、後のドイツの起源である。
869年、中部フランク王国のロタリンギア王で甥のロタール2世が死去したが、この時ルートヴィヒは全身麻痺の病のため動くことができず[1]、同年シャルル2世がロタリンギア王として戴冠した。しかし翌870年、ルートヴィヒはロタリンギアに対する自らの相続権を主張し、シャルル2世とメルセン条約を結んでその遺領を分割併合することを決め、アーヘンおよびメッツを含むロタリンギア東部を獲得した[2]。875年、ルートヴィヒは自らの死後の三子への遺領分割相続を定め、長男カールマンをバイエルンの、次男ルートヴィヒをフランケン、チューリンゲン、ザクセンの、三男カールをアレマニア(シュヴァーベン)の副王とした。翌876年、フランクフルトにて73歳で死去し、ロルシュ修道院に葬られた[2]。遺領は875年の決定通り、三子が分割相続した。
子女
編集827年に、アルトドルフ伯ヴェルフの娘ヘンマ(エンマ)(? - 876年)(父ルートヴィヒ1世の二度目の王妃ユーディトの妹)と結婚、3男4女がいる。
- ヒルデガルド(828年 - 856年/859年) マインのミュンスターシュヴァルツァヒ女子修道院長、チューリヒのフラウミュンスター女子修道院長
- カールマン(830年頃 - 880年) 東フランク王(バイエルン王)
- イルムガルド(エルメンガルド)(830年/833年 - 866年) バイエルンのフラウエンキームゼー女子修道院長
- ルートヴィヒ3世(835年 - 882年) 東フランク王(ザクセン王)
- カール3世 (839年頃 - 888年) 東フランク王(アレマニア王)、のちフランク王、ローマ皇帝
- ベルタ(? - 877年) マインのミュンスターシュヴァルツァヒ女子修道院長、チューリヒのフラウミュンスター女子修道院長
- ギーゼラ(840年 - 891年) シュヴァーベン宮中伯ベルヒトルト1世と結婚、ドイツ王コンラート1世妃クニグンデの母
脚注
編集参考文献
編集- 成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
- ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典II-皇帝と帝国-』 ミネルヴァ書房、2005年
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