ルーツク公国
ルーツク公国(ロシア語: Луцьке князівство)は1154年にヴォルィーニ公国から分離したルーシの公国である。首都はルーツク(現ルーツィク)にあった。その領域は現在のウクライナ・ヴォルィーニ州の、ストィル川に面した地域にあたる。
歴史
編集1097年、キエフ大公スヴャトポルク2世らによるリューベチ諸公会議により、ルーシ各地の領土の分配が取り決められた。ルーツクはダヴィド・イーゴレヴィチの、その後すぐにダヴィド・スヴャトスラヴィチの所領となった。さらにその後はルーツクはヴォルィーニ公国の一部となった。とはいえ、1154年には再びヴォルィーニから分離した独自の公(クニャージ)として、ヤロスラフがルーツク公となった。
1227年、ルーツク公ムスチスラフが所領をガーリチ公ダニールに遺贈した[1]。
1323年[2]、ルーツク公国はゲディミナスに占領された。公国はロマン家[注 1]出身者としては最後のガーリチ公となったアンドレイの娘を妻とした、ゲディミナスの年少の子のリュバルタスが統治することになった[3]。
脚注
編集注釈
編集- ^ ロマン・ムスティスラーヴィチを祖とする家系。詳しくはru:Романовичи (Рюриковичи)参照。