ルドルフ・フォン・ラインフェルデン

ルドルフ・フォン・ラインフェルデンドイツ語: Rudolf von Rheinfelden, 1025年頃 - 1080年10月15日)は、シュヴァーベン公(在位:1057年 - 1079年)、皇帝ハインリヒ4世への対立ローマ王(在位:1077年 - 1080年)に選出された。

ルドルフ・フォン・ラインフェルデン
Rudolf von Rheinfelden
シュヴァーベン公
ローマ王
(対立王)
ブロンズ製墓碑に刻まれたルドルフの像
(メルゼブルク大聖堂)
在位 1057年 - 1079年 (シュヴァーベン公)
1077年 - 1080年対立ローマ王

出生 1025年頃(1030年とも[1]
死去 1080年10月15日
オストマルクメルゼブルク
埋葬 メルゼブルク大聖堂
配偶者 マティルデ・フォン・ザーリアー
  アーデルハイト・フォン・トゥリン
子女
家名 ラインフェルデン家
父親 クーノ
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生涯

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ブルグント王家の傍系の出とされる。ライン川の上流、バーゼルの東方に位置するラインフェルデン英語版やブルグント、シュヴァーベンに領地を有していた[1]1057年神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の寡婦で摂政位にあったアグネスによってシュヴァーベン公位に就けられた。1059年末には、ハインリヒ3世の三女マティルデをさらって結婚し、ハインリヒ4世の義兄となった。1077年1月にカノッサの屈辱でハインリヒ4世の破門[1]が解かれた後の同年3月、フォルヒハイムにおいて反ハインリヒ4世派によってルドルフは対立王に選出された[1]。ザクセンの有力貴族オットー・フォン・ノルトハイムに支えられたルドルフは、同地において強い支持を得た。これに反発したハインリヒ4世によって、1079年にシュヴァーベン公位を剥奪され、シュヴァーベン大公位はシュタウフェン家フリードリヒ1世に与えられた。1080年10月15日[1]、ハインリヒ4世との間に起こったエルスターの戦いにおいて右手を失い、その傷がもとで死去した。遺体はメルゼブルク大聖堂英語版に葬られた。

結婚と子女

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1059年末、マティルデと結婚したが、翌1060年にマティルデは死去した。

  • ベルトルト1世(1060年頃 - 1090年) - シュヴァーベン対立公(在位:1079年 - 1090年)

その後1062年にサヴォイア伯女アーデルハイトオッドーネの次女、皇帝ハインリヒ4世のの妹)と再婚し、1男3女を儲けた。

ベルトルト1世の生母は不詳であるが、それ以外の子女は皆2番目の妃アーデルハイトの所生である。

出典

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参考文献

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  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
先代
オットー3世
シュヴァーベン公
1057年 - 1079年
次代
フリードリヒ1世
ベルトルト1世(対立公)