ルイ・エルサン
フランスの画家
ルイ・エルサン(仏: Louis Hersent, 1777年3月10日 - 1860年10月2日)は、フランスの画家、版画家である。
ルイ・エルサン Louis Hersent | |
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生誕 |
1777年3月10日 フランス王国、パリ |
死没 |
1860年10月2日 フランス帝国、パリ |
略歴
編集パリで生まれた。父親も版画家であった。ジャック=ルイ・ダヴィッドやジャン=バプティスト・ルニョーに学んだ。1797年に歴史画を出展して、ローマ賞の2位を得た[1]。ダヴィッドの流れをくむ新古典派の画家であった。肖像画家として多くの作品を描いた。サロン・ド・パリには1802年から1831年までほぼ毎年出展した。
1822年に美術アカデミーの会員に選ばれ、1825年にアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン(1767年-1824年)の後継として、パリの国立高等美術学校の教授に選ばれた。
1821年に測量学者の娘で、シャルル・メニエから絵を学んだ画家でもあった、ルイーズ・マリ=ジャンヌ・エルサン(旧姓:モーデュイ、Louise Marie-Jeanne Hersent-Mauduit:17841862)と結婚した。ルイーズはパリの自宅に女性のための絵画学校を開いた。
1825年にレジオンドヌール勲章(オフィシエ)を受章した。
作品
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Sophie Crouzet「ソフィー・クルゼ」
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マリー・アメリー・ド・ブルボンと息子たち
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Madame Jean-Charles Clarmont「クラルモン夫人」
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madame Demetz「デメッツ夫人」
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「ザレパテの未亡人の子を蘇生する預言者エリヤ」
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モン・サン・ゴターの姉妹
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Mme Casimir Perier「カジミール・ペリエ大統領夫人」
エルサンの学生
編集エルサンに学んだ画家には次のような人物がいる。
- フランソワ=アレクサンドル・ペルノー (fr) (1793-1865)
- イポリット=ジョゼフ・キュヴェリエ (fr) (1803-1876)
- ジャック・レイモン・ブラスカサット (1805-1867)
- シャルル・グレール (1806-1874)
- コンスタン・デュティユー (1807-1865)
- イポリット・フランドラン (1809-1864)
脚注
編集- ^ Ex-æquo avec Mathieu-Ignace Van Brée
参考文献
編集- Dictionnaire Bénézit
- Charles Gabet et Louis Charles Deschamps, Dictionnaire des artistes de l'école française au XIXe siècle, Paris, chez Madame Vergne, 1831, p. 349-350.
- Anne-Marie De Brem, Louis Hersent, peintre d'histoire et portraitiste 1777-1860 [catalogue d'exposition], musée de la vie romantique, Paris-musées, 1993, (ISBN 2879001196)
- Henry Jouin, « La Sculpture dans les cimetières de Paris : Cimetière de l'Est (Le Père-Lachaise) », Nouvelles Archives de l'art français, Paris, vol. 13, 1897, p. 103-238
- Patrick Shawcable, « Louis Hersent », in La Gazette des Beaux-Arts, janvier 1999, p. 20-21.
- Paul Bauer, Deux siècles d'histoire au Père Lachaise, Mémoire et Documents, 2006 (ISBN 978-2914611480)