マリア・アントーニエ・フォン・コハーリ
マリア・アントーニエ・ガブリエーレ・フォン・コハーリ(ドイツ語: Maria Antonie Gabriele von Koháry、1797年7月2日 - 1862年9月25日)は、ハンガリー王国のマグナート。ハンガリー語名は、コハーリ・マーリア・アントーニア(Koháry Mária Antónia)。
マリア・アントーニエ・フォン・コハーリ Maria Antonie von Koháry | |
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出生 |
1797年7月2日 ハンガリー王国、ブダ |
死去 |
1862年9月25日(65歳没) オーストリア帝国、ウィーン |
配偶者 | フェルディナント・ゲオルク・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト |
子女 |
フェルディナント アウグスト ヴィクトリア レオポルト |
父親 | コハーリ・ド・チャーブラーグ・エ・シトニャ公コハーリ・フェレンツ・ヨージェフ |
母親 | マリア・アントニア・ツー・ヴァルトシュタイン |
生涯
編集ハンガリー貴族コハーリ・フェレンツ・ヨージェフと、その妻マリア・アントニア・ツー・ヴァルトシュタインの娘としてブダで生まれた。兄が夭折していたことから、幼くしてコハーリ家の女子相続人となった。
1815年11月、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツの次男フェルディナントと結婚した。フェルディナントとの地位の釣り合いをとるため、フェレンツはオーストリア皇帝フランツ1世からコハーリ・ド・チャーブラーグ・エ・シトニャ公(Fürst Koháry de Csábrág et Szitnya)の称号を授かり、マリア・アントーニエも公女(Prinzessin)と呼ばれるようになった。ニーダーエスターライヒ、ハンガリー、スロバキアにおいて、マリア・アントーニエは8万ヘクタールを超える所領や鉱山、森林、工場を所有しており、第一次世界大戦が終わるまでザクセン=コーブルク=ゴータ=コハーリ家はハンガリーの三大地主の一つに数えられていた。
子女
編集外部リンク
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